私はナショナル・ジオ・グラフィックチャンネルが大好きなのですが、残念ながら今の環境ではケーブルで見ることが出来ません。
しかし、そういう人達への助け船か──ありがたいことに、GYAOでナショジオ専用の無料動画特集があります。(こちら→
http://gyao.yahoo.co.jp/p/00787/v09415/)今日は本日配信終了予定の「ミクロの世界へ大冒険!」を視聴していたのですが(とてもいい作品でした。分かりやすい内容で、子供でも充分楽しめます。本日配信終了でなければ、ご紹介したかったところです)その中で
カタツムリが出てくる場面がありました。
その瞬間。
哀しくて、そして憤りを感じてしまう思い出が蘇ってしまいました……。
それは、私が中学二年生の時のことです。
その頃の同級生で、女子からも男子からもからかわれる対象の子がいました。
今時で言う「いじられキャラ」っていうのでしょうか──? 虐めとは言い難い、でも、からかいの割にはタチが悪いという行為も多々されていて、私はそれが虐めなのかどうなのかの判断がつかず、よく悩んだものです。
その子のことを、仮にAちゃんとしておきます。
Aちゃんはパッと見(言葉は悪いですが)ちょっと抜けているような印象があって、そこがいじられキャラのターゲットになっているところでもあり、かつ、Aちゃんの「人の良さ」を表すものでもありました。
ある日、Aちゃんは学校に来る途中で「カタツムリ」を見つけたといって、連れてきました。
Aちゃんはもともと亀やおたまじゃくしなど、思春期の女の子には敬遠されがちなペットを飼っていたので、Aちゃんにとってカタツムリは琴線に触れる愛らしい存在だったのでしょう。
私も、子供の頃から動物や昆虫が好きだったので、Aちゃんのその優しさにはいつでも感心していました。男子の話や芸能人の話、深夜ラジオ番組のことや性行為についてなど、そんなことばかり口にするような生徒達に比べたら、はるかにAちゃんは純朴で、穢れない存在のように思えていたのです。
他の女子達は、みんな「カタツムリ! 気持ち悪い~!」と大騒ぎしていました。本心で大騒ぎしていたのか、それとも好きな男子の気を引きたくて(笑)そう言っていたのかは分かりませんが、Aちゃんの「カタツムリを連れてきた」という行為は、周囲にとってまたもやからかわれの対象になってしまいました。
もっとも、そこまではいつも見られる光景でした。
ただ、何かの拍子に、私もAちゃんも、そしてその場にいた私と親しい間柄の人達は、Aちゃんの机と、机の上にいたカタツムリから目を離してしまっていました。
次の瞬間──。
誰が最初に気付いたかは、今となっては覚えていませんが、誰かの「あっっ!」という大きな叫び声に私たちは我に返り、Aちゃんの机に視線を戻しました。
すると──。
カタツムリがいたはずの場所に、国語辞典がどかりと置かれているではないですか。
その下のカタツムリがどうなっているか、想像に難くありません……。
Aちゃんは、悲鳴にも近い声をあげました。
それと同時に、一斉にあがる笑い声──。
私は、猛烈に怒りを感じました。
Aちゃんへした行為だけじゃなく、
カタツムリの小さな生命を蔑ろにした行為そのものが、「許せなかった!」のです。
「誰だ、こんなことしたの! 出てこい!」
あまりの怒りに、私は絶叫せずにいられませんでした。クラスメイト達はみんな、「私じゃない」「俺じゃないよ」と半笑いで誤魔化します。
あの場で、本心から激怒したのは──たぶん私だけだったと思います。もしかしたら私と同じように怒りを感じた人もいるでしょうが、少なくともその怒りを表に表したのは、私だけでした。
私は、周囲にいるクラスメイトにも失望しました。半笑いということは、
今、目の前で悪戯に殺された生命に対する尊厳など、欠片も感じていないという証拠です。私はこの怒りをどこにどうぶつけていいのか、まったく分かりませんでした。
「早く辞書をどかしなよ! 生きてるかもしれないよ!」
女子のひとりが言いました。
とてつもなく残酷な言葉だと──そう思います。何故なら、どう考えたって生きているわけがないのですから……。
ちなみに、その辞書はAちゃんの辞書でした。私たちが目を離した隙に、誰かがAちゃんの辞書を、カタツムリの上に落としたのでしょう。
Aちゃんは「そうだね、そうだね、生きているかもしれないね」そう言って、慌てて辞書を外しました。
その先は──言わずもがな……です。
哀れなカタツムリの死骸をみて、「生きてるかもしれないよ」と言った子は、大声で笑いました。
狼狽しているAちゃんを見て、またみんなが笑います。
居たたまれなくなった私は、再び叫びました。
「一体誰がこんなひどいことしたんだよ! Aちゃんとカタツムリに謝れ!」
すると、Aちゃんがボソッとこう言いました。
「いいよ、由羅ちゃん。ごめんね……。あたしがいけないの。あたしが、連れて来たりしたから──」
私は、Aちゃんに何て言っていいのか──言葉が見つかりませんでした。カタツムリの亡骸は、ティッシュにくるまれ……その後どうなったのかは、覚えていません。
ただ、今でもカタツムリを見ると、その時のことを思い出すのです。
──こんなことが、あっていいはずがない。
あの後、私は怒りを通り越して、とても哀しくなりました。
何故、小さな生命を物笑いの種に出来るのか、本当に理解出来なかったのです。
いえ、もしかしたら「カタツムリの命程度で、ピーピー言う方もおかしい」そういう意見もあるかもしれませんね。
こればかりは、論議したところで「答えは出ない」そう思います。
生命の尊厳は「理屈」で理解するものではなく、「魂で感じるもの」だから。魂で感じられないと言う以上、説得の術はありません。
あれからもう26年もの歳月が流れ、当時のクラスメイトも立派な大人になっています。子供を育てている人も大勢いるでしょうし、場合によっては当時の私たちぐらいの年齢の子がいる人もいるでしょう。
生命を軽んじられたカタツムリと、それを奪われたAちゃんの傷を、彼ら・彼女らは覚えているのでしょうか?
Aちゃんの辞書をカタツムリに落として、素知らぬ顔を出来た人は、そのことを覚えているのでしょうか?
どんな小さな生物にも生命が宿っていることを、今の彼らは感じているのでしょうか?
答えは分かりません──。
でも、私だけはせめて、自分自身が生命を慈しむことはもとより、自分の周りにいる人達にも、生命の大切さを伝えていきたい──そう改めて実感させられる、そんな思い出です。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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