ここ最近、私は妙に大地震や大津波など、天変地異の夢を頻回に見ます。
先日見た夢は、大津波の夢でした(比率的に、何故か大地震よりも津波の夢を見る回数の方が多いです)。
鳴り響く警報と、高台に向かおうとする車や人の列。しかし夢の中の私は、どんな高台に避難したとしても「避けることが出来ない」というのを分かっていたようです。「どこに行こうとも、助からない」と。
私が住んでいる家は坂の途中にあって、すぐ上は山に面しているのですが、押し寄せてくる津波は
その山の「二倍」ありました。(とはいえ、これは決して非現実的な話ではないです。1958年にアラスカの方で500数十メートルに及ぶ津波が観測されていますし、50メートル前後の津波であれば、割と起きているようなので──)
やがて轟音と共に迫り来る波が見えるのですが、それを目にした時の私の気持ちは、とても穏やかでした。
みんな避難してしまったのか周囲はとても静かで、物音が聞こえません。湧き上がる複雑な思いを抱えたまま窓の前に立ち、波が押し寄せてくるのを黙って見つめている──というところで、大抵目が覚めます。
繰り返し出てくる夢の中でその設定が大地震だろうと津波だろうと大規模な火災だろうと、死を目前にする私はいつでも何故か落ち着いている──というのがパターンでした。
すっかり覚悟を決めているというか、むしろ「これで漸く、故郷に還れる」という想いが強いのか。
恐怖心というのは不思議となかったし、目が覚めた後に「夢でよかった~!」と思うようなこともありませんでした。
とはいえ! 夢の中がそうだからといって、実際どうなるかは
わかりませんよ~(含笑)。
めちゃくちゃ狼狽えまくるかもしれないし、イエスが言った「エリエリ・レマ・サバクタニ」どころの話じゃなく神に向かって
呪いの言葉吐いちゃってるかもしれません(罰当たりな;)。それどころか放送禁止用語使って罵りまくってるかもしれないし、こればっかりはその時になってみないと、私にも分かりませ~ん(苦笑)。
ただ、夢の中の自分を見てひとつ不思議に思うのは──
人間の恐怖の根源って、どこから来るのだろうという疑問ですね。
その時になってみないと分からないとは言うものの、私は幼少期からの体験が影響しているのか、死を恐れていないようなところはあります。
むしろ、生きている方が余程辛いことが多いと思っているところもあって、死という「最後のギフト」を受け取るのが楽しみだからこそ、今の生を悔いなく思いっきり生きよう──そう思ってるところがあるのかもしれません。
すべての恐怖が必ずしも「死」に繋がるものではなく、「生に繋がる恐怖」というのもあるのかどうか──恐怖というのは何を持ってして「恐怖」というのか、そこが疑問になったのです。
ここで、皆さんに質問です。
今、皆さんが「究極に恐れていること」は、何ですか? もし思いついたら、そのままその恐怖を細かく細かく、分析していってみてください。その先に辿り着く「恐怖の源が、一体何なのか」──私は、それにとても興味があるのです。(もしよろしければ、「自分の恐怖は、こんなところに行き着いた」という内容を教えて頂けると幸いです。)
その恐怖の源は、
「死に至るもの」なのか。
或いは、死に至るものばかりではなく
「生の尊厳が虐げられることそのもの」なのか──。
例として、自分のことをあげてみます。
私の恐怖は──詳細は言えませんが(笑)、要約していえば
理想を実現することも出来ず、体現する努力も出来ない状況下で拘束されることですね。
私の場合、恐怖は「死に至るもの」というよりも、「生の尊厳が虐げられること(或いは妨げられること)」に直結しているようです。
勿論、こうした状況には経済的な拘束、病的な拘束、人間関係による拘束、社会的な拘束など、あらゆる可能性が含まれます。どういうシチュエーションであれ、結果的に
「羽根をむしりとられた鷹が、狭い鳥籠に閉じこめられているような状態」というのが、私にとって究極の苦痛であり、かつ恐怖でもあります。
もっとも、恐怖は必ずしも「ネガティブな作用」があるわけではなく、ある意味
「それがあって初めて、人は健全な生活を送れる場合」もあります。
例えば、人間は本能的に恐れるものが多々ありますが(大量の火とか鋭い刃物とか)、それに恐怖を感じなければそれこそ死に至ったり、或いは誰かを傷つけてしまいかねません。
また、「生の尊厳を虐げられる恐怖」に関しても、そうした事態にならないよう、或いはそうなった場合の「心の準備」などをすることが出来ます。
ある意味、恐怖は「うまくつきあうこと」で、自分にとって心強い防具になったりする──とも言えるのかもしれません。
それにしても「恐怖」という感情は、他の感情に比べてきわめて異質で、かつ影響力が高い上になかなか拭えない厄介な代物です。
人間を「人間たらしめている感情」というものがあるとしたら、まず間違いなく「恐怖」はその筆頭にあげられるかもしれません。思えば「恐怖政治」という、その感情ひとつで「権力者達の思いのまま」なんて時代(中世ヨーロッパ時代)もあったぐらいですから。
恐怖心を克服することは、人間である以上は不可能かもしれません。
「死への恐怖」といった、断定したものであれば別です。しかし、これもまたどんなにひとつのテーマの恐怖を克服しても、また別のテーマの恐怖があるかもしれないのです。
恐怖は先にも書いたように、
「うまくつきあうことで、防具にもなり得るもの」です。
もしも神や高次元人達に恐怖がないのであれば、私たちは人間の特権(?)として与えられたこの恐怖と共に生きながら、それをうまく使っていく智慧が必要なのかもしれませんね。
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13日(月) 第六章(2)公開しました。
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