先日の記事「恐怖心を宥める為に」で、数名の方から感想やご意見を頂きました。
皆さんのご意見、とても参考になりました。いつものことで本当に申し訳ございませんが、この場にて御礼申し上げます──。
あの記事を書いた後も、私は「恐怖心」というものについてあれこれ考えていました。
その結果、行き着いた答えとしては
人間にとっては、物理的な死が恐怖に直結することは、まずないのではないだろうかというものでした。
例えば、動物には恐怖を感じる心がありませんが、本能で「恐怖」を感じているはずです。そうでなければ天敵が襲ってきても逃げることがなくなるし、それこそ種の存続が難しくなるからです。
動物が本能で感じる恐怖は、直結した死そのものしかありません。
それは、先日の記事でも引用したように、人間が燃えさかる炎や鋭い刃物、とても高い場所や天災などで感じる恐怖と同種のものでしょう。それらの恐怖はたいてい「死」と直結しているものであり、
肉体で感じる恐怖と言った方がいいのかもしれません。
ですが、人間には肉体だけでなく
こころ──いわば
精神があります。
精神が感じる恐怖は、肉体で感じる恐怖と
自ずと種が異なるのかもしれない、そう思ったのです。
例えば、肉体が感じる恐怖は先に挙げたように「死に直結したもの=肉体がなくなること」です。
精神が感じる恐怖は、必ずしも死に直結していません。
しかし、仮に「肉体が感じる恐怖との共通項を求める」のであれば──それは、
失うことへの恐れなのかもしれないと、そう思ったのです。
例えば、死は肉体にとって「なくなること」です。
では、精神にとって「失うこと」と言ったら、具体的に何があるでしょうか?
おそらく、これは人それぞれ色々なケースが挙げられると思います。恋人も然り、家族も然り、友達も然り、仕事も然り──。
お金も然り、名誉も然り、評価も然り──中には「無心で作ったプラモデルの一式が、なくなること」なんて人もいるかもしれません(笑)。
あと、「自分らしさを失うこと」というのも多いかもしれません。私が先日書いた自分の恐怖は、まさしくそこに行き着くものでしたので。
愛する者を失う、生活区域を失う、希望を失う、夢を失う、理想を失う、健康を失う──。
色々なケースが考えられますが、しかし、総じてそこにある共通項は
喪失です。
でも、ここで「おや?」と思う方がいるかもしれません。
何故なら、この世で生きている人間にとっての究極の喪失は、やっぱり
死に結びつくからです。
なのに、何故その「死」よりも、生きている間の喪失の方を恐れるのか──不思議ですよね?
これは、あくまでも私個人の憶測なのですが……
この理由の裏にこそ、
魂の法則性が隠されているような気がします。
私たち人間は誰でも、この世に産まれてきた以上いつかは必ず死にます。
言ってしまえば、死は
誰も破ることの出来ない、究極の約束なのです。それが早いか遅いかには個人差があれど、この最終ゴールを避けることは誰にも出来ません。
仮に、この世で、ただ生きることだけを目的にしている場合であれば、死を恐れるかもしれません。動物達のように、「種の存続」だけを目的にしているのであれば、種を守るという目的を脅かす死は、とても怖いもののはずです。
しかし、人間は「パンのみに生きるにあらず」なのです。
私たちが「ここ」にいるのは、ただ人間を存続させる為ではなく、そこには
自分たちという個人の成長も含まれています。
魂がそれぞれ学びを積む為に、この世に産まれてきていることを考えれば、「死が究極の恐怖にはなり得ない」ことが分かります。何故なら、死は「卒業式みたいなもの」だからです。
学びに来ている存在が、
卒業式を恐れるよりも、その学校生活(この世の生活)をどのように過ごせるかを気に掛けるのは、ごく当然のことかもしれません。
例えば、自由に世のあちこちを旅することを目的に産まれてきた魂が、体が不自由になって旅が出来なくなることを恐れるのは、
魂の学びの目的から外れることを、恐れているからということになります。
また、よりよく幸福にこの世で学びを積んでいる過程の魂であれば、愛する存在を失うことを恐れるのは当然だと思います(もっとも、愛する存在を失うというテーマは、形が違いながらもそれぞれの人にあったケースに含まれているので、必ずしも生きる目的や意味と直結している場合ばかりではない、という気もしています)。
或いは、生活的な支障──失業するとか、破産するとか、事故を起こしてしまうとか、そうしたものへの恐怖は、「自分らしさ(魂の本質)を失うことへの恐れ」に繋がっているような気がします。
結局、こうした恐怖の根源は
この世には摩擦が多く、魂の本質をストレートに打ち出せないことへのジレンマから生じているようにも思えます。
勿論、この摩擦自体が「学び」と言うことも出来るのですが、それを前にした段階で恐れてしまう気持ちは私にもよく分かります。いわば、神に祈る際に「試みにあわせないで下さい」という心境と、似たようなものかもしれません。
ただ、ひとつだけ思うのは──。
いずれにせよ、これらの恐怖に総じて言えるのは
まだ起こっていないということです。
例えば、かつてある辛い体験をして、その体験を「二度としたくない」と思っているうちにそれが恐怖心になってしまった場合なども、一度体験はしていたとしても「二度目は、まだ起きていない」のです。
要するに、恐怖心というのは
相対的な心の中の現象であって、リアルではない──ということ。
いざそれが実際に起きたら、人というのは意外に冷静に対処出来たりするものなのかもしれません。もしくは、嵐が過ぎ去るのをじっと待てるだけの忍耐力がついてる場合もあるかもしれない。
恐怖心を拭うのは、そうそう簡単に出来ることではありません。場合によってそれが小さくなってみたり、或いは大きくなってみたりと、振り子運動のように揺れて見えることでしょう。
でも、いずれにせよ
恐怖は、マインドが見せるイリュージョンでしかない──。 そのイリュージョンにパワーを与えて現実化するもしないも、自分次第──そう思うと、恐怖への見る目が変わってくるような気がしますね(笑)。
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次回、27日更新予定です。
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