日本の未来の為に、今、必要なこと

 藤原正彦「祖国とは国語」より 

 情報を伝達するうえで、読む、書く、話す、聞くが最重要なのは論を俟(ま)たない。これが確立されずして、他教科の学習はままならない。理科や社会は無論のこと、私が専門とする数学のような分野でも、文章題などは解くのに必要にして充分なことだけしか書かれていないから、一字でも読み落としたり読み誤ったりしたらまったく解けない。問題が意味をなさなくなることもある。かなりの読解力が必要となる。海外から帰国したばかりの生徒がよくつまずくのは、数学の文章題である。読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。
 それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。
 ものごとを考えるとき、独り言として口に出すか出さないかはともかく、頭の中では誰でも言語を用いて考えを整理している。例えば好きな人を思うとき、「好感を抱く」「ときめく」「見初める」「ほのかに想う」「陰ながら慕う」「想いを寄せる」「好き」「惚れる」「一目惚れ」「べた惚れ」「愛する」「恋する」「片想い」「横恋慕」「相思相愛」「恋い焦がれる」「身を焦がす」「恋煩い」「初恋」「老いらくの恋」「うたかたの恋」など様々な語彙で思考や情緒をいったん整理し、そこから再び思考や情緒を進めている。これらのうちの「好き」という語彙しか持ち合わせがないとしたら、情緒自身がよほどひだのない直線的なものになるだろう。人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。母国語の語彙は思考であり情緒なのである。
(中略)
 漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。(中略)
 読書は過去も現在もこれからも、深い知識、なかんずく教養を獲得するためのほとんど唯一の手段である。世はIT時代で、インターネットを過大評価する向きも多いが、インターネットで深い知識が得られることはありえない。インターネットは切れ切れの情報、本でいえば題名や目次や索引を見せる程度のものである。ビジネスには必要としても、教養とは無関係のものである。テレビやアニメなど映像を通して得られる教養は、余りに限定されている。
 読書は教養の土台だが、教養は大局観の土台である。文学、芸術、歴史、思想、科学といった、実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。
 大局観は日常の処理判断にはさして有用でないが、これなくして長期的視野や国家戦略は得られない。日本の危機の一因は、選挙民たる国民、そしてとりわけ国のリーダーたちが大局観を失ったことではないか。それはとりもなおさず教養の衰退であり、その底には活字文化の衰退がある。国語力を向上させ、子供たちを読書に向かわせることができるかどうかに、日本の再生はかかっていると言えよう。

 アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)もできない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。(中略)
 これと対称的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概して弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論になって、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢ぶりであった。
 当時、欧米人が「不可解な日本人(inscrutable Japanese)」という言葉をよく口にした。不可解なのは日本人の思想でも宗教でも文学でもなく(これらは彼らによく理解されつつあった)、実は論理面の未熟さなのであった。少なくとも私はそう理解していた。科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀な日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等にはとても信じられないことだったのだろう。
 日本人が論理的思考や表現を苦手とすることは今日も変わらない。ボーダーレス社会が進むなか、阿吽の呼吸とか腹芸は外国人に通じないから、どうしても「論理」を育てる必要がある。いつまでも「不可解」という婉曲な非難に甘んじているわけにはいかないし、このままでは外交交渉などでは大きく国益を損なうことにもなる。

 数学を学んでも「論理」が育たないのは、数学の論理が現実世界の論理と甚だしく違うからである。(中略)
 現実世界の「論理」とは、普遍性のない前提から出発し、灰色の道をたどる、というきわめて頼りないものである。そこでは思考の正当性より説得力のある表現が重要である。すなわち、「論理」を育てるには、数学より筋道を立てて表現する技術の修得が大切ということになる。
 これは国語を通して学ぶのがよい。物事を主張させることである。書いて主張させたり、討論で主張させることがもっとも効果的であろう。筋道を立てないと他人を説得できないから、自然に「論理」が身につく。読書により豊富な語彙を得たり適切な表現を学ぶことも、説得力を高めるうえで必要である。
 日本人が口舌の徒になる必要はないが、マイクをつきつけられた街頭の若者、スポーツ選手、芸能人、などが実質のあることをほとんど何も言えないのを見るにつけ、国語教育について考えさせられる。

 現実世界の「論理」は、数学と違い頼りないものであることを述べた。出発点となる前提は普遍性のないものだけに、妥当なものを選ばねばならない。この出発点の選択は、通常情緒による。その人間がどのような親に育てられたか、これまでどんな先生や友達に出会ったか、どんな本を読み、どんな恋愛や失恋や片想いを経験し、どんな悲しい別れに出会ってきたか、といった体験を通して培われた情緒により、出発点を瞬時に選んでいる。
 また進まざるを得ない灰色の道が、白と黒の間のどのあたりに位置するか、の判断も情緒による。「論理」は十全な情報があってはじめて有効となる。これの欠けた「論理」は、我々がしばしば目にする、単なる自己正当化に過ぎない。ここでいう情緒とは、喜怒哀楽のような原初的なものではない。それなら動物でも持っている。もう少し高次のものである。それをたっぷり身につけるには、実体験だけでは決定的に足りない。実体験だけでは時空を越えた世界を知ることができない。読書に頼らざるを得ない。まず国語なのである。



 かなり長文転載しましたが、これはとある国語の問題文に使用されていたものを掲載しています。自分が常日頃感じていることがそのまま書かれていたので、是非皆さんにもと思いご紹介した次第です。

 以前の記事で、「私たちは思考する際に母国語に頼らざるを得ず、自ずと母国語に宿る民族性の影響を受けている」といった内容を書きましたが(すみません;どの記事だったか失念しました)、上記転載した内容も全般を通じて「日本人としての母国語の大切さ」と、および「国語力を培う必要性」が訴えられています。
 言葉というのは(ここでも書かれているように)ただの表現ツールではなく、思考作業の土台とも言うべきものです。
 語彙力が少なければそれだけ思考する視野が限定されてしまうのは無理のないことですし、他者との交流においても誤解が生じやすくなってしまいます。
 ここでは国語の重要性が訴えられていますが、何も国語というのは「学校で習うものだけ」ではなく、いつでもどこでも自らの自主性で修得出来るものです。
 むしろ、学校の国語の時間だけに頼ると、本当の意味での国語力はつかないでしょう。ここで挙げられるような「論理力」を育てるには、自主的に本を読むこと、そしてその内容を「自分なりに咀嚼し、理解するよう励むこと」だと思います。

 最近は論理力不足だけでなく、若い世代における誤字が多々見受けられるようになった印象を受けます。
 先日も、とある掲示板で「永遠と同じ表示がされたまま」という一文を見かけ、首を傾げてしまいました。
 おそらく当人は「延々と同じ表示がされたまま」と言いたかったのでしょうね(笑)。「えいえん」と「えんえん」では、意味もニュアンスも違います。
 勿論、ブログなどでちょっとした誤字をしてしまう──ということは、よくあることでしょう。私もいっぱいあると思いますし(苦笑)、「ついうっかり」というのがあるのは仕方ないことです。
 しかし、「うっかり誤字」と「間違えた漢字を、正しい信じ込んでいる」のでは、まったく意味合いが違います。
 それから、音読の習慣が最近は減ったせいもあるのか、漢字を「間違えて読んでいる人」も増えています。
 例えば、「如」という漢字がありますが、これには「如実(にょじつ)」や「如才(じょさい)ない」というように二つの読み方があります。
 しかし「如実」は知っていても「如才ない」は知らなかったのか、「にょさいない」と読んでしまうようなケースの人を見かけることが増えたのです。(これはひとつの例でしかなく、実際には「如」に限りません。多種の漢字でそういう傾向が見受けられます。)
 やはり同じように若い世代に集中しているので、もしかしたら教育体制が変わったからなのかもしれませんが──。

 もっとも、そうなってしまったのは若い世代に問題があるのではなく、そうした体制の中で教育をしてきた、今の大人達の責任であると、私は思います。
 安易に若い世代の考え方や価値観を批判するのではなく、そうした社会体制にしてきたことそのものを一考すべきだと、常々そう思います。
 責任は常に「今、自分たちに」感じるべきであって、他者に転嫁すべきものではありません。また、時代の犯人捜しをするような無意味な時間を取るよりも、それならこれから先、どうすればいいのかを建設的に考えた方が、遙かにいいでしょう。

 転載内容の前半にあるように、日本人は昨今大局的な見方に欠けていると感じることが多いです。
 政治の在り方にしても、どんなに討論を重ねたところで「国民不在の政策」に過ぎないように感じるのは何故でしょうか? 明らかに大局的な視野が欠けているからだと思えるのは、私だけでしょうか?

 私はここ数ヶ月の間で、急激に日本が「岐路に追い込まれている」ような感覚を受けています。
 私は決して日本を卑下しているわけではないし、日本の将来を意味もなく悲観しているわけではありません。
 日本民族には、確かに素晴らしい気質や性質があります。
 でも、その「良さ」を認識すると同時に、「今の自分たちに足りないもの」を冷静に見つめ、受け入れる姿勢が必要だとそう思えるのです。
 お気楽な日本民族優越思想に走っている間にも、刻一刻と時間は過ぎていきます。
 本当に「ただ優れただけ」の存在であれば、そもそも転生自体「しません」。
 ここに生きているという以上、必ずやみんな「優れた側面」もあり、同時に「まだ欠けている部分」もあるはずなのです。
 その「欠けた部分」を客観的に見つめ、大局的な視点でもって「どう改善していけばいいか」──改めてそれを考え直す時機に来ていると思う今日この頃です。


【参考文献】
祖国とは国語 (新潮文庫)祖国とは国語 (新潮文庫)
(2005/12)
藤原 正彦

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プロフィール

篠崎由羅(しのざきゆら)

Author:篠崎由羅(しのざきゆら)
1970年生。幼少期から哲学・宗教学に造詣を深める。思想および思想史、それに付随した国際事情に興味を抱いて独学を続け、大学ではインド哲学科専攻。東西問わず、両者の思想に渡り研究を深める。

現在は看護師として施設で勤務しながら、その傍らで執筆活動を続けている。2016年11月にYOU are EARTH改め「WE are EARTH」の活動を再始動予定。より良い未来の地球のため、全力を尽くす誓いをたてている。

【篠崎編集担当】


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