最近、「言葉の概念を絞るということは、本当に難しいものだ」とつくづく実感します。
例えば、俗にいう「天国と地獄」。一般的に考えられている(?)天国は、ふわふわの雲の上に白い光沢のドレスを着た美しい天使や、ちっちゃな羽根が生えていてパタパタ飛ぶキューピッドの世界で、地獄は醜い魔物や鬼の住む世界。天国で魂は癒されるけれど、地獄では反対に生前の罪を問われる──というもの。
……って、自分で書いていて「一般的というよりも、かなりベタなイメージかな」と思ってしまいましたが(苦笑)。
昨今、スピリチュアリストの中には「地獄はない」と言う人もいます。
しかし、私は「それは個々人における概念の違いなのではないか」と思えるのです。
私自身は、通常「地獄」と呼ばれる場所は
あると思っています。
何故なら、
この世にも、地獄と思えるような場所や環境はあるからです。人間の心の中にそうした地獄が巣くっている以上、当然のように霊界にもそれが反映されるはずです(というか、されなければ大きな矛盾となってしまいます)。
私たちはどうしても、言葉の定義を決める際に
自分が聞き慣れている印象で判断しがちです。そうすると、地獄の場合は子供時代から耳にしてきたイメージ、「血の池地獄があって~、針山があって~、金棒もった鬼に追いかけ廻されて~」というものが浮かびがちです。
しかし、そのイメージを消し去り
霊的苦痛に苛まれる場所=地獄と置き換えた場合には、また違った印象になると思います。
戦場はまさしく地獄以外の何ものでもないと思いますし、飢餓に苦しむ子供達を救えない状況もまた地獄と言えるでしょう。
そして、そうした「霊的苦痛に苛まれる空間」というのは貧困国や紛争国に限らず、先進諸国──この日本にも、あちこちにあります。仮にそうでないのだとしたら、何故ここまで突発的殺人や自殺が続くのでしょうか?
「地獄はない」という考え方は、
どこに主眼をおくかで変わってくると思います。
先程あげたような「ベタな地獄」はないかもしれませんが(あっても意味ないですし)、霊界というのが
同じ傾向の霊達が集まる空間であるならば、波長の違いによって外部の霊からすれば「地獄」としか思えないような環境があっても不思議ではない──というよりも、「あって当たり前」だと思えるのです。
もっとも、他者からみたら地獄と思えるような場所にいるからといって、当人達が必ずしも苦しんでいるか──と言えば「そんなことはないだろう」と思います。
どういうことかと言いますと──
みなさんの周りにも時折、いたりしませんか? モラルハラスメントを起こしてしまうようなタイプの人。
何にでも腹をたて、何でも他人のせいにして、すべてに不平不満をいいながら生きているような人。
客観的に見ると、そういう人はとても辛そうに見えます。「怒り」というのは発散させてスッキリ出来るものではなく、むしろとめどなく溢れてくるものだと思えるからです。
不満もそうです。不満を周囲の人にさんざん言ったから「スッキリする」というものでもありません。勿論、他者にそれを口にすることで不満の全体像を明確にすることが出来、それによって自分の中で視点が変わり状況を改善出来る──ということもあるでしょう。
しかし、そうした前向きな努力なくして不満だけを口にしていても、決して幸福にはなれません。不満は次の不満を呼び、雪だるま式に心の中で膨張するだけです。
そうした人達が亡くなった後、どこの霊界に行けるかと言えば──やはり、同じような「心の重さ」を持った世界に行くことになるでしょう。
ですが、それは俗に言う「審判によって」ではありません。例えば、水と土をよく攪拌させた泥水をしばらく放置した場合、やがて水と土に分離されていきます。それは「土が重いから」であって、「土が審判によって『悪』と判断されたから」ではありません。それと同じことです。
怒りや不満に満ちた心は、土のような重みを伴い、そうした重みに近しい魂ばかりが集う霊界は普通に「ある」と思います。そうした心のあり方を「苦痛」と感じている人にとってみれば、そのような霊界は「苦痛極まりない=地獄」のように感じるでしょう。しかし、そこにいる人達にしてみれば、それが普通──場合によっては「天国」に感じるかもしれないのです。
そうした意味で言えば、天国も地獄も、やはり
「相対的」と言わざるを得ないでしょう。
言ってしまえば、霊界とは面白いことに
相対性が絶対性になり得る空間でもあるのです。
「地獄はない」という人達の多くは「絶対的な地獄(誰にでも共通して実感出来るような地獄)はない」と言っているのであって、相対的地獄の否定ではないと、私は思います。そこを誤解してしまうと、超お気楽主義な「誰でも天使」的発想に行き着いてしまい、人生の重さや深みを理解出来なくなってしまいます。
先日、「宇宙の拮抗する力」で書いたように、真反対に働こうとするエネルギーが共にある「この世」というのは、それだけで貴重な存在なはずです。
そうであるにも関わらず、安易に片方の視点を否定して「すべては天国だけ」とか「地獄だけ」と絞ってしまうことがどれほど勿体ないことか──お分かり頂けることでしょう。
世のすべては一元論でありながらも、それは「複数の多元性を含んでいるが故」です。人間の肉体だって、肉体そのものは「ひとり」であっても、それを組成する物質はあらゆる様々な要素が複雑に絡み合っています。中には相反する働きのものもあるでしょうし、一見毒のように思えるものでも、場合によっては肉体を維持する上でとても大切な働きになる場合も考えられます。
このように、一種否定的と思われるものであっても、この世に生きている以上はそれを受け入れ、認めることも私たちにとって大事な学びなのかもしれません。
悩んで迷うのは「この世に生きている証拠」ですし、いずれ死ねば、そうした迷いはなくなります。(アセンションなどしようものなら、尚更です──。)
それなら、相反するものや表裏一体のものを感じながら、充分迷って、悩んで、精一杯生きた方が遙かに、魂にとっては成長に繋がるのかもしれませんね。
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