先日、ネットで面白い記事を見かけました。「正しい論理は危ない」という記事だったので、一体どのような論理が危ないのか興味を抱いて目を通したところ、それは実に的を射た内容でした。
その記事には、思わず頷きたくなるような例も書かれていたのです。
【正しい論理は危ない?】 http://www.webdoku.jp/tsushin/2010/12/26/153938.html “正しい論理”は危ない?~『「金持ち」の不幸、「貧乏人」の幸福 』
海外のジョークにこんなものがあります。
ある精神病院で、入院患者が風呂場で釣り糸を垂れている。
「どうです、釣れますか?」
すると、患者はこう答える。
「釣れるわけないじゃないですか、ここは風呂場ですよ」
風呂場で魚が釣れるわけがない、というのはまさに正しい論理です。しかし、この論理を展開しているのは精神病院の入院患者、つまり狂人。このジョークは「正しい論理を使える人は狂っている」ということを言っています。
「その典型がナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーでしょう」。そう語るのは、書籍『金持ちの不幸、貧乏人の幸福』の著者・ひろさちや氏。演説であれほどまでにドイツ国民を熱狂させたヒトラーの論理には、欠点はあっても、意味不明なところはありませんでした。しかし、人間らしい当たり前の感覚はなかったのです。
そこが危険なポイントだと、ひろ氏は警鐘をならします。たとえば、1人の人間が1時間かかって穴を掘ったとします。同じ穴を2人の人で掘ったら30分、3人だったら20分を要しました。では、120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成するでしょうか?
120人だったら30秒で一つの穴を掘れるというのは、論理的には間違っていません。しかし、ひとつの穴を120人がかりで掘るなんてできません。論理としてはごもっともですが、人間らしい感覚を持っていたら、「でもね......」となるところです。この「でもね......」が"人間の論理"なのだとひろ氏は言うのです。
ひろ氏は、同書のなかで「正しい論理」ほど、危険なものはないと何度も繰り返します。正しい論理が、必ずしも人間らしい論理とは限らないのです。
私はこの記事に、深く同意してしまいました。
同時に──不安が芽吹いたのも否定は出来ません。
皆さんもご存知のように、昨年から裁判員制度が導入されました。
施行後一年弱ではまだまだ黎明期と言ったところですが、裁判員制度になった後の判決で、なかば不安を煽るようなものもないわけではありません。
先日「
日本の未来の為に、今、必要なこと」にも書きましたが、日本人に論理力が欠けているというのは言われて久しいことです。
もっとも、ここで言う「論理力」というのは、上記書いてあるような「正しい論理」ではありません。抜粋した記事にもあるように
灰色である現実の中で、判断をする力のことであり、情緒と深く結びついた論理性──いわば
洞察力であり、「人間の論理」です。
洞察力が発揮される前提というのは、
多くの情報と、比較出来るだけの多数の例があってこそだと思います。私は司法書士の勉強をしていた際六法全書とさんざん向き合いましたが、判例というのは本当に数え切れない程沢山あります。
もし私が仮に裁判員として出なければならなくなったら、「どれほど多くの情報と照らし合わせればいいのか」でまず不安になると思います。人が裁かれる場で、
「120人で穴を掘ったら、30秒で穴は完成する」というような思考でいては絶対に「まずい!」からです。
しかし、ここ最近の裁判員制度の兆候を見ていて、「もうすでに、そうした論理に陥っているのではないか」と思わせるような判決がいくつかありました。
勿論、裁判員となった方のご苦労は、心中お察しします。また、仕事などを休んで出席しなければならないなども考えれば、多くの負担があることも想定出来ます。
ですが、そうした多くのことを抱えた中で、冷静な判断というのは出来るものなのでしょうか? 私だったら、とても重荷です。しかも死刑求刑されるような罪状であれば、尚更です。
この裁判員制度。どうしても「勇み足すぎた」ように思えるのは──私だけでしょうか?
本当はもっと議論し、ただでさえディスカッションやディベートが苦手な日本人の論理力を挙げてから踏み切るべきだったのではないかと、今更ながら思うことが多々あります。
こういうことを言うと、「アメリカでは陪審員制度があるじゃないか」という反論があるかもしれません。でも、上記リンクした記事で引用した内容にもあるように、アメリカ人の論理力と日本人の論理力では、最初から「開き」があるのです。民族性というものを重んじるのであれば、日本には日本にあった裁判の方法を模索した方がいいように思えるのです。
不思議なことなのですが、論理力に欠けている人ほど、上記引用した
「論理上では正しいけれど、現実的に考えたら不可能」或いは
「人間的に考えたら、それはおかしい」ということでも、平然と掲げる傾向があります。
以前、このブログでも紹介しましたが、通勤電車に乗っていた母子を無理矢理下ろしたOLの話──。このOLは、きっと「自分は、間違ったことをしていない」そう思っているでしょう。
でも、「人間としては、間違っている」──私はそう思います。
もうひとつ、その事例と似た内容をご紹介します。
これはずいぶん前に記事になっていた内容ですが、
「デジタル万引き」という件が題材にされていました。
デジタル万引きというのは、いわゆる
携帯などで写真を撮り盗むということを示しているようです。勿論、本当の万引きのように文字通り盗むわけではありません。ですが、その是否について物議が醸されたようです。
きっかけは、とある女性がインターネットの質問コーナーに、自分の体験談について意見を求めたところから始まりました。
その女性は、書店で「料理のレシピ」を立ち読みし、その中で気に入ったレシピを
携帯で写真に収めていたそうです。
それに気付いた店主が、「そういうことはやめてください」と指摘しました。するとその女性は、「あともう少しで終わるのだから、少しぐらい待ってください」と言ったそうです。
その結果、店主とその女性は口論となりました。やがて店主は「出て行ってください!」と肩を掴み、その女性は追い出されたそうです。
そのことに憤った女性が、「私は犯罪を犯したわけでもないし、法律に違反しているわけでもないのに、そのような不当な扱いを受けた」と怒りのコメントを書いたのです。
みなさんは、これについてどう思いますか?
「犯罪じゃない」──それで済む問題なのでしょうか。
確かに、女性の言っていることは「正論」かもしれません。法律の条文にも、そういったものはないでしょう。
でも、
法律に規定がないから、何をやっても許されるという考え方は、とても「恐ろしいもの」ではないでしょうか?
「じゃぁ、駄目な理由を言ってよ!」
何でも
杓子定規にしか考えられない人というのは、そういうでしょう。
しかし「駄目な理由がなければ、何をやってもいい」と言ってる時点ですでに、
白か黒の論理だけで、物事を判断している証拠なのです。
先日の記事にあげた「論理力」は、こうした「白か黒だけに囚われること」における論理性のことを言っているのではなく、もっと
魂の本質に触れた洞察力のことを言っており、同時に
日本人が、数学は得意(白か黒論理)であることも指摘しています。
そして、上記引用した「正しい論理」は「数学的論理(穴掘りの事例は、まさに数学的論理です)の危険性」を指摘しています。
哀しいかな、この女性のように「正しい論理(数学的論理)」で現実をはかろうとする人は、増えてきているように思います。
でも、本当に大切なのはそうした論理力ではなく、
洞察力でもって、相手を思い遣る「人間力」です。
合理性を追求し、裁判員制度などを設けてはみたものの、まだまだそうした「人間力」における教育が不十分なのではないか──そんな危惧が拭えない昨今です。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
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第七章(1)27日公開しました。
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