今週末に予定していた小説更新日予定公開やメールの返信が出来ておらず、申し訳ありません。ツイッターにも書いたように父の危篤により、時間をとることが出来なくなってしまいました。
21日の深夜2時、突然、父親の心臓が止まりました。
原因は、まったく分かりません。心臓病を持っていたわけでもなければ、健康診断で動脈瘤などの指摘も受けたことはありません。その前日の夜(20日の夜)には予兆もまったくなく、突如、呼吸が停止したのです。
ただ、「胸が痛い」ということだけは言っていたようです。前日に「右肩から腕にかけてと、胸全体が痛む」ということを告げていたようですが、その痛みも「酷い痛み」というわけではなく「ぼんやりと痛む」といった感じだった為、「神経痛じゃないの?」ぐらいにしか周囲は認識していませんでした。ましてや、その訴えさえも「ずっと前から言っていた」のではなく、「その日だけ」だったのですから。
深夜、寝ていた私の部屋の外で、母から「由羅さん、ちょっと来て。お父さんが息をしていないみたいなの」と言われた時は、「え? まさか」といった感覚しかありませんでした。
しかし実際にいってみたところ──頸動脈はとれず、脈拍もとれずで……すでに冷たくなっていたのです。
でも……不思議ですね。
私がその瞬間、一番最初に思ったことは──
「……やっと解放されたね。もういいよ、ゆっくり休んで──」 ──その一言に尽きたのですから。
時間がだいぶ経ってから様々な後悔や自分への戒めの言葉など浮かんで来ましたが、冷たくなっている父の体に触れて一番最初──いわば「こころの一番搾り(笑)」とも言うべき言葉は
解放だったのです。
他者の死に触れた際、「一番最初に浮かんだ想い」というのが、
その人にとっての、死のイメージなのかもしれません……。
パニックになる人もいれば、「何て不幸なんだ」と思う人もいるだろうし──他者の死を前にして「一番最初に浮かぶ想い」は、本当に人それぞれなのでしょうね──。
今はまだ語れる程の精神状態ではありませんが、父の後半生は本当に「哀れな人生」でした。
私と父は、ずっと前から「犬猿の仲」で、父は私を怖がっていたようなところがあるし、私は私で(変に生真面目な性格故)父のことを「不誠実だ!」と思っていました。
そうした間柄の存在の死であっても、喪失感は残ります。
そして「悔い」や、反省や──あらゆる複雑な想いが浮上してきます。
今はまだICUで植物人間状態のまま肉体はありますが、血圧はもうすでに上が40まで落ちており──明日、担当医と「今後をどうするのか」を話し合ってくることになりそうです。
死と向き合った時、私が一番感じるのは
死に逝く魂が、果たしてどれほど生命や死のことを知っていただろうという疑問です。
今まで私たちは(特に日本は)、死をあまりに「タブー視」していました。
そして、「臭いものには蓋をしろ」の精神で誤魔化し続けてきた結果が、皮肉にも
自殺大国と言われる程の自殺の増加現象だったのです。
私は父が死に旅立とうとしている中で、もっとも気にかけているのが「父はどれほど、死について知っていただろう」ということです。精神世界に関する文章を執筆している私ですが、だからといって肉親が「死や精神について、よく理解しているか」といえば、そういうわけではないのですから。
私たちは、どう足掻いたところで
必ず死に逝く存在です。
なのに何故、その先のことを誰も語ろうとしないのでしょう。考えようとしないのでしょう。
化学も医学も、それそのものは「死の向こう側の世界」を「何一つ証明もしていない」けれど、同時に
「否定もしていない」のです。
「死んだ後、何も残らない。人間は物質でしかないんだ」というのは
人間が勝手に出した結論であって、化学や医学の発達が証明した結論では「ない」のです。
何故なら、化学や医学は「人間が生きていく為の過程でありツールでしかない」のであって、「人間が存在する為の、答えではないから」です。
それなのに何故、人間が「死」について語らなくなったかと言えば──私は
思考停止してしまっただけのように思います。
考えるのが面倒くさいから、そこで「考えるのをやめてしまった」という──養老孟司さん風に言えば、そこが「バカの壁」なのかもしれませんが……(苦笑)。
勿論、歴史における背景だってあるでしょう。よく取り沙汰される「第二次大戦中、日本は『お国の為に』といって死を賛美したから」という理由も一理あるでしょうが、すべての理由にはなりません。何故ならそれは「社会情勢や大衆の姿勢の問題」であって、「死、そのものに罪があるわけではない」からです。
私はもっと、死について多くの人に真実が伝わって欲しい──そう願っています。
人間は「物理的な世界を便利にすること」ばかりを考えて、「肉体の生が終わった後のこと」をまったく意識してきませんでした。
でも、もしも「肉体の生が終わった後も、魂は永遠に存在する」ということに意識を向け、それを「論理的に証明しよう」という人達がもっと増えていけば──時代は必ずや「死の扉の向こう側へ続く通路」を開けてくれるような気がします。今までにもシュタイナーやスウェーデンボルグのような人達が出てきたのと、同じように。
観念を「ロジック化」出来たとき、精神と物質は
融合を果たす──そんな気がします。
その融合を果たす為のきっかけは、もうすでに「ある」ような気がするのです。
こうした時代のタイミングで、突然の事故死のように父の死と向き合えたのは──私にとっては「大きな意味」があるのかもしれません。
死は「通過地点」でしかなく、主体である「霊魂は不滅」である──。
こんな言い方をすると、ロジックが苦手な父には「もっと分かりやすく言え」と言われそうですが(苦笑←でも、本来は高校の物理教師なのですけれどもね……)、今となって私に出来ることは「そうやって、父に霊魂の不滅を語りかけることぐらいなのかもしれない」──そんなふうに感じています。
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