二年ぐらい前のことですが、当時親しくしていた友人がこんなことを言っていました。
「私、スピリチュアルはもう卒業したの!」 おそらくはこれを読まれている方の中にも、そうした言動を友人なり知人から聞いたという人がいるかもしれません。ですが、実はこの言葉は、その人が
スピリチュアルの意味も真髄も、何も分かっていなかったということを証明してしまっているのです。
何故なら、スピリチュアルに「卒業もへったくれも『ない』」からです。
スピリチュアル──日本語に置き換えれば「霊性」と言えるかもしれません。
霊性を卒業することって、出来ますか?
イエスのように肉体ごとアセンションしたとか、仏陀のように「覚った」というのなら、話は別です。そうではない、普通の人たちが霊性を卒業する──なんてことが、可能でしょうか?
霊性。言い換えれば
「生命そのもの」とも言えます。
「スピリチュアルを卒業した」と言う人たちは、実は
「生命を卒業しました!」と言ってしまっているのだということに、是非とも気付いて頂きたいものです。
また逆に言えば、今の時点でスピリチュアリストを名乗っている人は、そうした間違いを犯さないで欲しい──そう願っています。
目に見えない真理の探究に飽きて、或いは「他の方面も探求したい」と思って方向転換することはいいことだと思います。むしろ、目に見えない真理は
「目に見える現実世界を知り抜いてこそ、見えてくる」とも言えるからです。
「体験からしか、覚りは得られない」のです。机上の空論であっては、どんな真理もただの絵空事でしかありません。
ちなみに、その友人や他にも散見されるケースによれば、「周囲が『天使』だの『精霊』だの『サイキック』だの言っているのが嫌になった」ということが挙げられるようです。
要するに
「形からスピリチュアルに入ってしまった人」というのは、同じように「卒業という『形』」に囚われてしまうのでしょう。
ですが、生命そのものに「入学」も「卒業」もへったくれもあり得ません。根本的にスピリチュアルの意味を「はき違えてしまっていた」が故に、こうした言動になってしまうのでしょう。
とはいえ、未だにスピリチュアルが「現実から遊離した、非現実の世界」という認識がまかり通っているのも事実です。
そうではありません。
覚りを得たくて「行」に励むのであれば、日常の中でそれを行うことだって出来ます。滝に打たれるよりも、寒空の下で路上に立ちながらビラを配る方が、よっぽど忍耐がいるでしょう。どんなに理不尽と思える目にあっても、笑顔で相手を赦せるような心情でいられる人の方が、たった一人で野山を駆け廻っている人よりも調和がとれることでしょう。
その人の価値観、生き様、日常、人生。
すべてに反映されるのが「その人の霊性」であり、「スピリチュアル」です。
奇抜な体験や能力が「スピリチュアル」なのではありません。
ごくごく平凡な毎日の「積み重ね」の中にこそ、スピリチュアルの原点があるのです! かつてスピリチュアルだったという人も、また、現在スピリチュアリストを名乗る人も、そのことを絶対に忘れないで欲しい。そうでないと、本当に大切な生命の源を見失い、こころを失うことにもなり兼ねません。
ちなみに冒頭に書いた友人に対して、私はここに書いたのと同じ言葉を伝えました。残念ながら、聞く耳を持ってはもらえませんでしたが……。
「形だけ」のスピリチュアルや、奇抜な体験、上っ面な綺麗事に惹かれてスピリチュアリストになった人は、いざ何かあった時、今度は手のひらを返したように「スピリチュアル批判者」になりがちです。
そうした人から何か攻撃を受けることで、同じように批判者になるようなこと──或いは、自分がスピリチュアルに失望したからといって(本来、生命に失望など出来ようもないのですが。失望したとしたら、それは厳しいようですが「本人の責任」です)真理と向き合う人を阻害したり、道を邪魔するようなことをしないでもらいたい……そう思います。
上記で書いたように、本来のスピリチュアルは「現実の中にこそ『ある』」のですから──。
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