私は今までにも何度か「死後、霊界に旅立てない霊」という存在に遭遇してきましたが、最近はむしろ「そういう霊が少しでも少なくなるよう、生きているうちから『人々が死を受容し、迷いなく旅立てる道筋』を伝えていくような活動をした方がいいのではないか」と考えるようになりました。
医療分野に関わっていると、「患者だけでなく、医療者側も死を受容出来ていないばかりに起きる悲劇」というのを少なからず耳にするからです。医療現場に関わる人ほど、本来は「死」「魂」「人間の存在理由」について考えなければならないのに、現代日本ではまだまだそれが出来ていないのが現状なのです。
ところで──。
皆様は「ヒアアフター」という映画をご存じでしょうか?
マット・デイモン主演の映画で、去年の春、日本でも上映される予定だったのですが──3月11日の震災により映画の冒頭にあった津波の場面が問題視され、上映中止となってしまいました。その後6月にDVD化され、レンタルにもなっています。私もレンタルで観ましたし、ご覧になった方も多いのではないかと思います。
この映画──翻訳は「来世」とされていますが、厳密に言えば「あの世」。要するに「死んだ後のこと」が対象になった作品です。
マット・デイモン扮する「ジョージ」はいわゆる霊能力者で、死者とコンタクトすることが可能でした。そんな中、自分が津波で臨死体験をしそれ以後「死の向こう側」を探究するようになったフランス人ジャーナリスト「マリー」。そして、双子の兄を交通事故で失った少年「マーカス」が、ジョージと会って「死者との対話」を試みる──という話です。
死後の世界をテーマとした内容にしては、かなりリアリティを追究して描いている印象を受けました。ただし、その分歯切れの悪いラストになってしまった感は否めませんが──現実世界に生きている以上、「死後の世界」を表現するのはこれが限界なのかもしれない……そう思わずにいられないような終わり方でした。
「死」というものは、誰しもに
必ず訪れる通過点です。
にも関わらず、何故か誰もあまり語りたがりません。
これは医療分野でも同じことで、医療分野ほど「死」と隣接している業界はないにも関わらず、真剣に死と向き合おうとはしないのです。多くの医師や看護師達は、「死を探究するのは、哲学者と宗教家のする仕事」と本気で思っているようです。
勿論、今までにも死に瀕する患者への働きかけとして、素晴らしい本を書いてきた人だって大勢います。エリザベス・キューブラ・ロスや、上智大学の教授アルフォンス・デーケン博士などはその代表とも言える人達です。デーケン博士はキリスト教神学の教授ではありますが、彼らは決して信仰という形のみで語られる死の看取りを訴えているわけではありません。そうではなく、
私達が「死とどう向き合うか」という姿勢によって、訪れる死の形が変わってくることを伝えようとしているのです。
遠回しで分かりづらい表現となってしまいましたが、死というのは
死後の世界があるから、怖くない、或いは
魂が永遠だから、死後を恐れることはないといったものであっては「いけない」──私はそう考えているのです。「死後に何が待ち受けるかは分からない。でも、
私は死を恐れることなく、堂々と生きていく」そんな姿勢が求められるのではないかと思えるのです。
死を恐れるということは、逆を返せば生を恐れることでもある──そう思えるからです。
勿論、私自身は死後、魂が存続することを体験でもって知っています。しかしだからといって、私が死後「どの世界に行くか」というのは分かりませんし、それについて「知りたい」とも思いません。
それは私がこの世での学びをしている最中の「今」知るべきことではないし、それを知らないからといって死を恐れることもしたくない──そう思っているからです。
死後、どこに行くかということは──
どんな精神の在り方で、どんな生き方をし、どんな人生を歩んだかが決めることでしかない──私にはそう思えるからです。
そして大切なのは、
死の瞬間。 その瞬間に「どのような心持ちでいられたか」というのが、とても問われるような気がしています。
上記、ヒアアフターとは対照的に、
死後の世界をまったく表現として入れていないのに、リアルなまでに死について問いかけている映画というのがあります。
それが、2004年のスペイン映画「海を飛ぶ夢」です。
この作品では「尊厳死」についてが描かれています。
主人公ラモンは、25歳の時に起きた事故が原因で頸椎損傷となり、首から下の全身が不随となってしまいました。そんな中で30年以上生き続けてきた彼が「死」を望むようになり、自ら命を絶つという権限を求めて訴えを起こしていく──という作品です。
この中で、宗教的な価値観──或いは精神的価値観は描かれていません。
ひとえにラモンの「人生観」それだけが描かれているのです。
途中、ラモンを慕うロサという女性から「死後の世界」について尋ねられる場面があるのですが、ラモンははっきりと「そんなものはない」と言い切ります。「死んだら、すべてが消えてなくなるだけさ」と。
要するに、ラモンは「不随の人生が嫌になったから、来世やあの世に期待して命を絶つ」のではなく、
自らの存在をすべて消滅させるという覚悟の中で、あえて死を選んだということがこの台詞から分かります。
私は本来、死と向き合う際に望ましい在り方があるのだとしたら、この「ラモンのような在り方なのではないか」と思っています。
私には、ラモンが「死後の世界を否定していたから」と言って、本当に消滅したとは思えない。何故なら、私自身が何度も死を通過した霊やこの世ではない世界に体外離脱した体験から、「死後をどんなに否定しようにも、自分という霊はどう足掻いても消せないのだ」ということを実感しているからです。
ラモンは、死に立ち向かう際にとても「冷静」でした。
「死に冷静」ということは、逆を返せば「生にも冷静」ということです。
何かに必要以上の期待をすることなく、ただ「ありのまま」だけを見つめて、静かに旅立っていく──。
死を正しく見つめ、死を理解するということは、決して
死後の世界を肯定することだけとは限らない、この映画を観て私はそう思うようになりました。
勿論、何かしらの宗教を持っていなければならない──ということでもありません。
要するに、
今の自分をありのままに受け入れ、その自分が出来ることだけに専念する──それだけで充分、天国の門は開かれるのかもしれない、そう思えるのです。
勿論、そこまで達観出来る人というのはそうそう多くはないでしょうし、大半のケースは「死後の行き場」という意味で死後の世界を知らないが故に途中で迷子になってしまうことも少なくありません。
だから、多くの場合やはり「死後の世界」を情報として知っておくのがいいとは思います。
しかし映画「海を飛ぶ夢」を観て以来、正しく霊界に導かれる方法は必ずしも「死後の世界を受容することだけでは『ない』のだ」ということを、ここ最近になって実感した次第です。
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【参照】ヒアアフター:死後の世界という表現を通じて、魂や人間存在について疑義を投げかける作品
海を飛ぶ夢:死後の世界を表現することなく「死」という現象だけを通じて、魂や人間存在に疑義を投げかける作品
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