私の父は昨年の5月に亡くなりましたが、今でも(霊となった)父との交流は続いています。
むしろ、父が生きていた頃よりも交流があるかもしれません(苦笑)。
私と父との間には確執があり、正直に言えば決して家族としての仲が良かったわけではないのです。しかし、肉体の器がなくなって初めて、父の本質が私にも見えるようになり、私自身が父を誤解していたということも知って反省させられることも多々あります。
父とのやりとりを通じて、私自身が実感を持って学んだことがあります。
それは、
人は肉体をもって生きている間、霊性にない性質を帯びてしまうことがあるということです。
具体的にどういうことかと言いますと、父には生前、批判的な言動をする癖がありました。昭和初期生まれの男性には珍しいぐらいに、他者の陰口やうわさ話をよくしていたのです。
一方、私は子どもの頃からそうしたうわさ話や陰口が大嫌いな人で、そんな父を「女々しい」と感じていました。
ところが──いざ肉体をなくした後に分かったことですが、父の霊性には本来そうした「他者の陰口を言ったり、批判をするという癖がなかった」ということが分かったのです。
それなら、何故そのような性質が根付いてしまったかと言うと──実は、父が婿入りした母方の実家に、そうした特質が根付いていたのです。
いわば、「批判的・陰口・うわさ話」という「癖」が、肉体的に接する環境において
伝染していただけだったのです。
その他にも、父が生前好んでいたものが、実際には霊性が求めていたものではなかった──ということも分かりました。父が好んでいたもの──それは「麻雀」なのですが、どうやら戦後、高度経済成長に向かう流れの中にあった当時の大学生の間で「麻雀」というのが時代的に流行していたようなのです。
一過性で麻雀にハマり、年を経て卒業していく人もいる中で、父はそこからなかなか卒業が出来ませんでした。それが結果的に、後々父を苦しめる原因ともなっていったのですが……実はそうした遊びが、父の霊性において「求めていたものではなかった」ということが分かったのです。
これは、私にとって「大きな発見」でした。
要するに、私たちは
今、生きている中で自分が「自分の性格」として認識しているものが、必ずしも霊性から来るものだけではないということが分かったのです。
逆に言えば、自分の中にあるコンプレックス──或いはネガティブな思いなど、そうしたものも実際には霊性から生じたものではない、
肉体という器があるが故に生じている、一過性のものである可能性だって否定出来ないのです。
よく、国民性における価値観の違いや、地域における性質の違いなども問い沙汰されますが、そうしたものも実は
霊性における違いではなく、肉体的な制限において派生しているだけという可能性も考えられるのです。
私は今まで、国民性の違いや地域における違いは「その特性に似た霊性が転生しているのだ」と考えていましたが、実際は「そうではないケース」も多々あるのかもしれない──そう思うようになりました。要するに、もともとは霊性においてその国や地域の特性を持っていなかったにも関わらず、
肉体的な遺伝の影響において、本来の霊性にその特性がプラスされてしまうということもあるのだなと、父の霊と交流することで悟ったのです。
だとしたら──自分の中にあるコンプレックスやネガティブな想念を、「必ずしもクローズアップしなくていい」ということなのかもしれません。
いえ。むしろコンプレックスやネガティブな想念がその人の霊性のカルマではなかった場合(肉体的な器によって、一時的に表出しているだけの場合)、本当に生まれてきた意味を「はき違えてしまう危険」もあるでしょう。
それは実際に、父の霊とのやりとりの中で感じました。
父の霊性は、元来「人の役に立ちたい」という奉仕精神に満ちあふれていたのです。ところが、肉体的な器から生じたカルマに拘束され、自分が本来抱いていた思いとは「まったく逆の展開」へと至ってしまったのです。
父がもっとも望んだのは、私たち家族に対して「役に立ちたい」という思いだったのですが、それは叶えられることなく──また、周囲に知られることなく、人生が終わってしまったのです……。今でも父はそのことを悔いているようで、私たち家族に対して一生懸命働きかけているのが感じられます。
(でも、あまりそこに執着すると霊界の先に進めなくなるので、どうやって父の思いを満たしてあげられるかが私にとっての課題でもあります。とはいえ、もしかしたら、こうして父が教えてくれたことを私が発信していくことで多くの人の霊的な学びになっていくのであれば、間接的に父の行為がみんなの役に立つことでもあるので、それも父への供養になるのかもしれませんね。)
もし、皆さんが今生きている間にも「霊的に純度の高い生き方をしたい」と願うのであれば、自分が今抱いている思いが、果たして
肉体という器から生じたものなのか、或いはそうでないのかを区別する必要があるのかもしれません。
また、繰り返してしまう過ちや思いを抱いている人は、それが「肉体的な拘束(肉体的な遺伝による性質)」であるかどうかを一考してみるといいのかもしれません。
霊性における目的を満たしている時は、どんなに摩擦や軋轢が生じても、不思議とそれを受け入れられるものです。時代が大きく様変わりしていこうとする中で出来るだけ俯瞰的にものごとを見るためには、物質的次元に存在する肉体の拘束を超えて、本来の霊性に立ち返ることが必要なのかもしれませんね。
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