今日から10月になりました。
早いものですね、今年も残すところあと「2ヶ月」です。
何だかここ最近、時間の流れ方が早いだけでなく一瞬一瞬がすごく濃厚すぎて――ちゃんと自分の中で消化しきれているのかななんて、心配になります(苦笑)。もう少し、時間の使い方を上手にして、このブログも定期的に更新出来るようになりたいものです(嘆願)。
ところで――。
先日お知らせした「霊性の指針 無料鑑定」の募集ですが、今朝の6時に受付終了しました。
おかげさまで沢山の方からご応募頂きまして、深く感謝しております。ここしばらく篠崎は予定が混み入っている関係で、今日のうちにと思い、さっそく抽選結果を出しました。
当選された方には、すでにお知らせをメールお送りしております。外れてしまった方は――本当にごめんなさい; 次回11月にも募集をしますので、是非再度チャレンジなさってみてください。
さて、本題に入ります。
今回は、一ヶ月前にも掲載した「死の本質」について、別角度で掘り下げた記事を掲載します。
死の本質を理解するというのは、人間にとって「最も大切なことのひとつ」だと、私はそう思います。この時代において「自己の確立」と同等に、「『死の本質』の理解」も非常に大切なひとつだと、そう思えるのです。
だからこそ、何度でもそのことについて記事にしていくつもりですし、何度でも別角度で掘り下げていきたい――そう思っています。
昨今増加している自殺者数も、衝動的な殺人事件も、すべてはこの「人間が、死の本質を理解していないこと」に起因しています。
何故、このように死は人にとってネガティブなものとなってしまったのでしょうか。本来、生も死も「生命の一側面」でしかなかったはずにも関わらず、何故、このように死だけが「苦」としてクローズアップされてしまったのでしょうか。
「死が苦」であれば、同時に、「生も苦」なのです。
仏教にある「生老病死」という四苦の中に「生」と「死」の両者が含まれているのは的を射た表現です。何故なら、両者は絶対に切り離せない「存在における『両側面』に過ぎない」からです。
以前、「カタストロフィー」についての記事を書きました。
カタストロフィーというと、闇雲に恐れる人達も多いですが――本来、死の本質に気づいてさえいれば、「カタストロフィーを恐れること自体、必要なくなる」のです。
大体、私達はカタストロフィーを恐れる以前に、「いつでも、死と隣り合わせ」にいるのですから。
大地震が起こらなくても、明日、突然事故死するかもしれない。病死するかもしれない。見ず知らずの通行人に、刺されるかもしれない――。
何が起こるのか、私達は「知らずに」生きているのです。カタストロフィーという言葉だけで拒否反応を起こすのではなく、もっと本質に――「何故、それを恐れるのか」ということに、目を向けるべきです。
それは、ひとえに「死の恐怖」――そこに行き着くはずです。
勿論、だからといって「人の死に、鈍感になれ」と言っているのではありません。
私は何度も書いてきたように、死者の霊達と交流してきましたが――そんな私でさえ、いつでも人の死には涙します。
理不尽な紛争の死に、苦しみ喘ぎます。
飢餓で苦しむ子供達の死に、哀しみを覚えます。
上から強制された戦争に借り出され、そこで命を落とした人や、その苦悩により帰国後自殺してしまうような若い兵士達の死に、深い哀しみを抱きます。
何故なら、「生を堪能出来なかった人達の死」は、誠に哀しいものだからです。
もし、そこに哀しみを抱けないようであるならば――最初から人は、「考える」という力を与えられて生まれては来なかったでしょう。「こころ」を持って、生まれては来なかったでしょう。
死という問題は、肉体を持ってこの世にいる以上、そうそう容易く乗り越えられる問題ではありません。
死は、「この世における存在の消滅」に値する。
そこを抜き落として見てしまうというのは、「他者の存在」というものを心の中に受け入れてないことに通じるのではないか――私はそのように思えるのです。
「死は、悪戯に恐れるものではない」。
でも同時に、「背伸びして、達観すべきものでもない」のです。
ましてや、他者の哀しみに触れた際、どんなに死者が光り輝く存在になったのが見えていたとしても、「見えない人達への配慮」というものを、欠かすべきではない。私はいつでも、そのように自分に言い聞かせて来ました。
とはいえ――。
私が見た限りにおいて、このように「死をすぐに、受け入れられたケース」というのは「ごく稀」です。
何故、そんなに「死」というものを、人はそうそう受けいれられないのでしょうか?
理由は――
「それほどまでに、生きていた頃と『まったく変わらない』」からなのです。
「シックスセンス」という映画、皆さんもご存知かと思います。
ここに出てくる霊達は本当に生々しく描かれていて、みんな「肉体がなくなっただけ」で他は何も変わっていません。
だから、あまりに死が突然だと、人は「まったくもって感覚が変わっていない」が故に、「自分が死んだ」ことを理解出来ないのです。普通にビジネススーツを着て、普通に鞄を持ち、普通に会社に出勤しようとする霊がいるのはその為です。そのぐらい、死んだ直後は「何も変わらない」のです。
そうすると、「何故、自殺がいけないとされるのか」――お分かり頂けると思います。
私達は「生きている間」早いテンポで成長をします。霊体でいる時間に比べたら、肉体を持っている時の方が成長は数段早いです。
しかし、その「成長のチャンス」を無為に過ごし、自ら命を断ってしまったら――どうなるでしょう?
「死に至った際の『苦悩』」が、まるで凍結されたように「霊の内に刻まれてしまう」のです。
そうすれば、どうなるか。
繰り返し、繰り返し、「死のう」とするでしょう。
死の本質がどういうものか――死は「肉体がない」だけで、今の自分と何も変わらないことに気づけない以上、ずっと何度も何度も、同じ場所で、「まだ死ねない、まだ死ねない」そう言いながら、自殺行為を繰り返すことになります。
同じ波動の人が来れば、あまりの孤独感から「やっと話せる人が来た!」そう思って、一生懸命話しかけようとするでしょう。そして、死を自覚できていない人の霊に話しかけられたが故に、同じ波動を持ったその人もまた、同じように死へと誘われてしまう――(自殺の名所とされる場所や、人身事故の多い駅では、こうした現象が繰り返されています)。
孤独な者が命を投げ出して死んでも、その先にあるのは「永遠の孤独」だけなのです。
生きていれば成長の機会もあるし、変化の機会も無数にある。
でも、それが「失われる」ことの意義深さを、改めて実感してみてください。それがどんなに恐ろしいことか――苦悩や孤独が「永遠に近い程、永い時間続くこと」の恐怖を、感じてみてください。
自殺は「絶対に、すべきではない」。
日本人は、変に「自殺」を美化しすぎています。中国の新聞記事でも、日本の自殺問題につき「日本人にとって、自殺は『責任』と直結しているのではないか」という推察が載っていました。
確かに、日本人の中で「責任をとる=自殺」という印象はあるかもしれません。
でも、こうした自殺者数の増加は「日本人独特の死の概念」だけが影響しているのではなく、「日本が第二次世界大戦の中で、多くの死を味わい、そうしたカルマがまだ解消されていないから」ということに、もっと多くの人が気づくべきです。
そして、そうした人達(戦時中の死者の霊)が死を自覚するよりも先に物質化社会へと移行し(高度経済成長期やバブル経済期など)未だそこに目を向けられていない現実があることを、再認識すべきです。
だからこそ、「これほど、日本が自殺大国になってしまっているのだ」ということを――。
私はひとりでも多くの人に「死の本質を知ってもらいたい」と、心から願っています。
それは、「これ以上、命の軽視化を進めて欲しくないから」です。
もし身内に自殺者、事故死した人などがいるのであれば、何よりもまずは「生きている身内の方がしっかり、死の本質を理解し、それを繰り返し心で伝えてあげること」です。
「あなたは死んだ。肉体はすでに、なくなっている。でも、それは決して『終わり』ではない。新たな生の始まりなのだ」ということを――。
先程、「死に悲しむ人達への同情を、捨ててはいけない」――そのように言いました。
一般の人達にとって、やはり死は「大いなる別れ」だからです。
しかし、必要以上にそこに囚われてしまうと、今度は死者の方が「先に行けなくなってしまいます」。
だからこそ、「自分の死」の為だけでなく、「身内の死」の為にも、「愛する者の死」の為にも、「死の本質を理解すること」が必要なのです。
死は、決して「終わり」ではありません。
物質世界から解き放たれて、「本来の姿」に戻るだけの話です。
だから、この世で積み重ねた経験、知識、体験、心情、すべては「そのまま」残ります。そのまま残りますが、それはすなわち「霊性の故郷」に帰った際、どこに行き着くかの目安となります。
要するに「生き様」と「心根」が、すべてを決めるのです。
「生を大切にしない者」は、本来は主体であるはずの「死の後の生」をも、大切には出来ないでしょう。
死という扉の向こう側を理解した上で、生を充実させておくということは、必然的に「前向きな死」を受け入れられることと一緒です。
死は決して特別なものでも、みなさんに無関係のものでもなく――それどころか、「非常に大切なこと」なのです。
なのでどうか、他者の死に無関心にならず、同時に、自分の生にも向き合ってください。
自殺と他殺は、形を変えていますが「同じもの」です。どうしても「他殺」の方が罪深い印象を受けてしまいますが――生命の基準で考えたら……同じ意味なのです。
増加する自殺。
そして、多発する衝動殺人。
この両者を解決する為には、「死の本質を理解する教育」というのが、本来は必要なのではないか――そう思います。
死の本質を理解するということは、「生命への感謝」にも直結します。子供の頃から教えるのだって、充分大切なことだと思います。
スピリチュアル・ブームと言われて久しいですが、表層的な愛や光が唱えられていても、こうした「死の本質」を訴えるものはそうそうありません。
どんなに上澄み液を綺麗にしたところで、本質が濁っていたら、人は霊性を高められないのです。もっと現実に即し、現実的諸問題と霊的背景をリンクさせた上で、私達は「死」というものを見つめ直す機会が必要なのではないか――そんなふうに感じる昨今です。
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