2013年に放映されたハリウッド映画は、最近の流行なのか何なのか
「家族」がテーマなものが多かった印象を受けます。
「アフターアース」「スタートレック イントゥ・ダークネス」「ワールドウォーZ」などはその典型例ですが、「エリジウム」も結局は「主人公が惚れている女性とその娘を守る」という、狭い範囲での関係性が描かれています。
しかし…篠崎的な感想を言えば、こういった作品は極めて
「駄作」が多い気がします。
個人的な感想をここで言い出すと
「夜が明けて、昼過ぎても終わらない」と思うので控えますが、思わず観ていて「う──ん…」と考え込まずにはいられませんでした。(特に「ワールドウォーズ」や「エリジウム」への怒りはハンパないです。エリジウムは「ヒア・アフター」のマット・デイモン、そして私が大好きな「コンタクト」のジョディ・フォスターの共演ですから「さぞかしテーマ性が深いものだろう!」と期待してみたら…裏切られまくりでした…。映画館で観なくてよかった──とつくづく思いました;←考えたら俳優は映画の演出部分で、テーマ性は監督と脚本が担っているンですが…。)
でも──何故、こんなにも「家族」がテーマの作品に対して違和感を感じるのでしょうか?
これは映画「2012」の記事の時にも書きましたが、
家族性を強調しすぎると、それは「エゴ」に通じてしまうからなのかもしれない…そう思いました。
宇宙の仕組みは、すべて「フラクタル」です。すなわち、小規模のシステムは大規模のシステムを踏襲しています。家族というのは一見すると「(血の繋がりはあっても)自分ではない他者」を含みますが、さらに大きなシステムからみたら「自分の領域」であり、それは自分自身ともイコールになります。
アメリカは今まで「個人主義」を貫きすぎたが故に、その反省から「家族をテーマにした作品」が急激に増えたのかもしれませんが…その描き方は結果的に「個人主義となんら変わらない」──私はそう思います。
「ワールドウォーZ」の一場面で、パニック状態になったスーパーにおいて主人公が妻を守るために市民を撃ってしまう場面があります。
でも、そこについては何のフォローもなく、あたかも
「家族を守るためなら、それは正当防衛!」というのを振りかざしているような印象を受け、すごく不快になりました。
そうした場面そのものに問題提議があるとしたら話は別ですが、そうした後付もなく──結局、制作者側の「あくまでも娯楽だし!」という開き直りっぷりが垣間見れて、
ムカムカさせられます。(って、いかん; ただの感想になってる…)
本来、家族の在り方や大切さを訴えるのであれば、それは
「共同体としての尊重」という形になる必要があるように思います。
先日、トム・シャドヤック監督の
「I AM ─世界を変える力─」というドキュメンタリーを観ましたが、この中で
人間には元来、共生することへの喜びが存在するということが描かれていました。
シャドヤック監督はコメディ映画の監督して成功を納めており、プール付きの豪邸、自家用飛行機など、アメリカ富裕層の典型的な生活を送っていました。しかし九死に一生をえる事故をして以来、自分の人生を見つめ直すようになり、その中で得た「気づき」をこの「I AM」で表現していました。
この中でとても興味深く、かつもっと深く知りたいと思ったのは
「共生の機能」についてでした。
今までアメリカでは「競争社会」が理想とされていました。
より優秀に、より豊かに、よりカッコよく「周りと競い、自分が秀でろ」ということを子どもの頃から教育されています。シャドヤック監督もずっとその教育の中で生きてきて、事故を境に「そうした教育の欠陥」に気がつくわけです。
そうした経緯や、
何故、人には共生の意識が芽生えるのかということを、この作品の中では丁寧に実証していきます。
でも、冷静に考えれば私たちは
すでにそのことを知っているはずなのです。
何故なら──冒頭にもあげたように、
宇宙はフラクタルであることを思えば、社会、国、世界──そして地球も、
すべて自分であることに気づけるからです。
そしてその視野を広げれば、
宇宙までもが自分であるという気づきに至ります。
すなわち、
「家族制が崩壊した = だから『家族を大切』にして、愛し抜こう → 家族のためなら人だって殺しちゃうぞ!」というのは
まったくもって
「筋が違う!!」ということが、お分かり頂けるはずです。
家族を大切にするなら、隣に住む誰かも大切にでき、
社会も大切にでき、
国も大切にでき、
民族も大切にでき、
地球全体も大切にできるはずなのです。 こうして考えると、
「世界が紛争や宗教でバラバラになってしまった今、宇宙から敵が来襲すれば『ひとつになれる』!」なんて考え方は、
ナンセンス!!! であることも、お分かり頂けると思います。
先にあげた作品のうち、「スタートレック イントゥ・ダークネス」だけは、そうした矛盾をついていました。
ちなみに、絶賛された宮崎監督作品「風立ちぬ」を、多くの評価に反して私が酷評する理由も同じところにあります。あの作品は「反戦主義者であると自他共に認めている宮崎氏が抱えている矛盾の現れである」──私はそう考えています。これも語り出すとキリがないので、ひとまずここでやめておきます。 また、もうひとつこの作品で興味深かったのは
「そうした共生を感じ取る機能は、心臓にあった」というところでした。
それがはっきりと医学的見地で証明されてはいなかったのですが、心臓の新たな機能として実に興味深いものだと思います。
ここで何度か紹介した「アミ 小さな宇宙人」の中でも、アミは
「本来、思考は『脳と心臓』でされている。しかし、地球人は脳だけを使って心臓を使って思考していない」と語っていました。
ハートというのはもともと心臓をさしていますし、人は感動したりすると胸を「ぐっ」とおさえます。証明はされていなくても、古来から人は「心臓」に対して特別なエネルギーを感じていたのかもしれません。
先日のブログ記事でも触れましたが、人類は270万年前に急激に脳が進化し、科学や文明を生み出して来ました。
脳が思考することで「個性」が見いだされましたが、その際に「共生」や「協力する」ということを失念してしまい、これほどまで人類が暴走してしまったのかもしれません。
共生や協同、共存共栄──。
こうした言葉をいつも意識していれば、他者を尊重する生き方、奉仕する生き方がどれほど生命の本質に近いのかが分かると思います。
ある意味、冒頭で紹介した最近の映画は、利益重視すぎの
「分離を促す脳」が生み出した妄想の極地なのかもしれません。
分け与え、人を助け、共に支え合う働きが心臓にあることが医学的にも証明されたら──さらに新たな展開がこの先に待っているかもしれませんね(笑)
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
また、毎日の記事を書く為の「大きな励み」になっていますので、クリックのご協力をお願い致します。(いつも押して下さっている皆様、本当にありがとうございます。)
【公開が著しく遅れております; もうしばらくお待ちください…※3月頃、公開予定。】
↑のバナーからお入りください。◇メインサイト◇