
※映画「ラブリーボーン」に出て来た天国の入り口。天国はどんな者に門戸を開くのだろうか年が明けてから今に至るまで、何だか色々とバタついていたのですが…ようやく思考が「執筆MODE」を取り戻したようです。
喩えて言えば、脳内で常に本が何冊か読み進められているような感じ。目に飛び込んでくる現象すべてが「言葉」となって飛び交う感じ。
一度
「からっぽ」になってみないと、今の境地には至れなかったかもしれません。そう考えると、本当に「がん」にありがとうと言いたいし、体調不良の状況を生み出してくれた抗がん剤にも「ありがとう」って言いたい気分です。
昨晩、私はとても嬉しいメールを頂きました。
それは、すごい賞賛や評価や、ディテールの凝った誉め言葉でも何でもない。たった一言。
「由羅さんというひとは凄い潜在力のひとだね。」その言葉が、まるですべてを包括した種のように脳内に飛び込んで、すでに機能を失ってしまった思考回路全てを動かしてくれたような感じがしました。
そう。そのメールがなければ…やっぱり執筆MODEに入れないまま──スランプのままでいたかもしれません。
からっぽになって──脳内の機能が停止した状態に、その言葉だけが
「ポン」と入って来たのです。
種からあっという間に芽が出て、根が生え、再度動き出した私の思考は、もはや「以前の私の思考」ではありませんでした。
そのメールを読みながら、私はずっと泣き続けました。
「理由のない涙」というものが存在すると、初めてその時知りました。
同時に、こうも思いました。
私は大した人間じゃない。
臆病で、周りばかり気にしていて、もめ事があればすぐに天の岩戸に隠れてしまう。
ウズメの踊りに魅了されてこっそり開けた隙に無理矢理引きずり出され、「ああ! 誘惑に負けなきゃよかった!」と後悔してばかりいるそんな存在。
湖のほとりで斧を落としてしまい、女神から「お前が落としたのは、金の斧か? 銀の斧か?」と聞かれたら、真顔で「金と銀だと、どういう違いがあるんですか?」と逆に訊いてしまうようなKYっぷり。
裸の王様を見ても、大人たちのように目を逸らさず、かといって子どものように正直に「王様、裸だ!」とも言わず、「へぇ。これからは『裸』がイケてる時代なんだ」と思い込んでしまう馬鹿さ加減。
ほんの少しでもいい、
わずかでもいいから自分を「すごい」と思えたらいいのに、そんなふうに思う毎日を過ごしていました。
そんな私なのに──それなのに「凄い潜在力がある」と言ってもらえるのは──
私がすごいんじゃない。
私を
「そう見てくれている」、その人自身がすごいのだ、ということに気が付いた。
何のとりえもない石ころの私を見て「これはすごい!」と言って磨きをかけて、それが美しい宝飾品になったとしたら──それは石ころの私が凄いのではなく、
宝飾品にしてくれたその人自身が凄いのだ、と。
だから、まずはとにかく
「走ってみよう」。
ルドルフ・シュタイナーは死の床につき、息を引き取る瞬間まで自分の思考をノート代わりの黒板に書いていたという。
ニーチェは晩年廃人になってしまったが、亡くなる直前のニーチェと逢ったシュタイナーは、ニーチェが廃人になりながらも尚、肉体から離れたところで思考し尽していたと言っている。
労働と仕事は「違う」。
労働は、生活の為や生きるための糧を必要とするもの。
仕事は──天命。
生まれて来た目的、そのものに近い。
その天命を、私は全うしたい。
幸いにも、私はそれについてすでに「知っている」。逆に言えば、多くの人が「天命探し」をする時間の余裕が私には与えられなかった、ともいえるかもしれないけれど。
新たに芽吹いた思考の樹が、私の頭蓋を打ち砕き、天高く伸び続けることを夢見て。
●多くの方に、「真剣な目で地球人類の進化に意識を向けて欲しい」と、強く願っています。
また、毎日の記事を書く為の「大きな励み」になっていますので、クリックのご協力をお願い致します。(いつも押して下さっている皆様、本当にありがとうございます。)

【篠崎の個人ブログ】包み隠さず、何でもぶっちゃけトークってます。


【SF長編小説:人類滅亡後に突如現れた先進文明と古来の地球人であるヒューマノイドの対立】
※しばらく休載させて頂きます※

【ファンタジー小説:ソラと仲間達の神様を探す旅】
