
本当は年末まで続ける予定でしたが…実は
とある思いがけない出来事が起きて、急遽、今日で閉鎖することにしました。
閉店セール企画の内容を楽しみにされていた方、すみません;
最後の更新となるので…
1番、皆さんにお伝えしたいと思うことを書きますね。
前回の記事でも書きましたが、昨今のスピリチュアル分野はなんだかもぉもぉ「カオス状態」です。
でも──そんな中でも「何が真理か」を見定める方法が
2つだけあります。
まずひとつめは、
「自分の直感」です。
その情報を読んでいて、どこにも引っかかるところがなく、スラスラと入ってくるというのであれば、それは真理です。
ただし、そこにはひとつ条件があって
「あなたにとっての真理である」ということです。
同時に、
「今だけの真理」とも言えます。
なぜなら、いくら自分の直感に従うとはいえ、そこには必ず
「自分自身のフィルター」が入ってしまっているからです。
だから、別に
後から変わったっていいんです。
或いは、「いやいや、あの時はこう思ったけど、むしろとんでもなく間違いだった」ということに気づくかもしれません。
でも、それだっていいんです。
その時の自分が「そうだ!」と思ったのであれば、それは迷うことなく「あなた自身の真理の一部」であることに間違いないからです。
でも、もしかしたらこれを読んだあなたは
「いや、自分は普遍の真理を知りたい」そう思うかもしれませんね。
だとしたら、最も指針になる基準──それは、
「慈愛」です。
そこに書かれていることが、大いなる赦しと慈愛に基づいた内容なのか、
「目には目を」というような、分離的な視点ではないか、
万民に共通する、
そして、地球の全生命にとって希望にあふれる内容なのか、それが何よりもの基準になるでしょう。
私が最近読んだ本で、著名人に対して「ランク付け」をしている内容がありました。
善なる資質を1とし、悪を10として、段階で書くのです。
例えば、 篠崎由羅 10 とか(笑)。←この場合は超悪党、ってことになります。
このようにランク付けをする視点は、愛に基づいているものでしょうか?
それが、未だに続く人種差別やレッテルを貼る行為と同じだということに、皆様はお気づきのはずです。
そもそも、神が…或いは偉大なる宇宙が、人間に成績表を出しますか?
「はい。君はちょっとだけ頑張ったから4」
「君はダメだね、はい10」など。
この視点は、決して愛に基づくものではありません。
その他、たとえばスピリチュアルマスター
(あまりこの呼び名は好きではないですが。人はみな、平等ですので)とされる人が本当に「ついて行ってもいい人か、どうか」に悩んだら、以下の項目でその人を見つめてみましょう。
・他人の悪口(それが身内であれ)や批判をお喋りで言う人かどうか?
・笑い話や冗談のようにしながら、他者を見下して自分をよく見せるような話をする人かどうか?それですぐに見抜けると思います。
本当に慈愛の意識に立つ人であれば、決して人をけなしたり悪くは言いません。
自分が悪く言われるようなことがあっても、涙を呑んで、ただ事態が過ぎ去るのを眺めていることでしょう──。
それこそが「赦しのこころ」です。
それと、もうひとつ──。
例えどんなにこの社会においては
「嘘・偽り」或いは
「自分に都合のいい真実」で誤魔化せたとしても、
肉体を脱ぎ捨てた時にすべてが白昼の元にさらされるのです。そうであるのなら──仮の世で着飾って誤魔化すよりも、私はどんなに辛い思いをしたとしても「真実に生きたい」、そう願います。
(ですので、チャネラーと名乗る人達は、それが本当に
「嘘、偽りのない真実」であるのかどうかを、常に問い続ける必要があると思います。自分の言葉で多くの人を惑わせてしまっていたとしたら…それは取り返しのつかないこととなるので。)
今日は奇遇にも冬至ですね。
新たな切り替えにぴったりな時期かもしれません。
それでは皆さん!
長い間、本当にありがとうございました!!