ここ最近忙しいせいなのか――どうも風邪がすっきり治りません。今もまだ、熱が38度台から下がらない状態です。下がらなくても、「やらなくっちゃならンことは、やらなくっちゃならん」ので、頑張るしかないのですが(苦笑)。
私が「肉体」がなくなったら何を一番喜ぶかと言ったら――それはもう「健康を気にしないでいい」ことを喜ぶでしょうね(笑)。疲労もない、眠気もない、空腹もないなんて言ったら、24時間年中無休で、喜んで駆けずり回っていそうです。←って、「雪やこんこん」の犬じゃないんだから……;
なんて……実はそんなくだらない与太話しか出来ないぐらい、ちょっと「ヨレヨレ」だったりします(汗)。連載ものだったので、今回も過去記事掲載となりますが何卒ご勘弁下さいませ。
「霊学的人間の考察」は、今回で最終回となります。明日以降は再び本題である「理想世界の探究」について記事にしていきたいと思っております(体調が治れば、ですが)。
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2008年2月6日 過去ブログ「思考世界」より転載 今回も前回の続きで、「アストラル体と自我について」を考察します。
◆アストラル体◆ アストラル体は、よく「幽体」などという言い方もされています。ただ、言葉で理解してしまうよりは、その言葉が指し示す「本質」で理解した方がわかりやすいでしょう。
著書「神智学」の中でシュタイナーは、人間を三つの本質に分けています。「体・魂・霊」という三元素ですが、アストラル体はこの「魂」の部分にあたります。(※前回説明しましたように、肉体はエーテル体を切り離しては存在し得ない為、この三元素は「体」の中に「肉体+エーテル体」が含まれているものと考えられます。)
この「アストラル体」と「魂」が「同じ本性を示している」ということについては、「神秘学概論」の中でも示されています。
眼の前の対象を意識化するのは、アストラル体の働きである。しかしその意識を永続的なものにするのは、魂なのである。しかし今述べたことからもすぐに分かるように、人間の中にはアストラル体と、意識を持続的なものにする働きとが、深く結びついている。したがってこの両者をも「アストラル体」と呼ぶことが出来る。 また、魂もただ漠然とした塊なわけではなく、その作用によって三つの作用に分かれています。
「感覚魂・悟性魂(或いは心情魂とも言うそうですが、ここでは悟性魂で統一します。)・意識魂」という三つの作用です。
「感覚魂」というのは、いわゆる五感のようなものです。物質界の中に存在する上で感じる知覚のことを「感覚魂」と言っています。
一方、この
「悟性魂」というのは、魂が知覚された印象を受け取るだけでなく、それをさらに「意識上に働きかける」という作用をします。
例をあげると――火のついたストーブに手を触れてしまい、「あちっっっっ!」という印象を感じるのは「感覚魂」の働きであり、その経験を踏まえて「もう絶っっっ対、触らね!」って思うのは「悟性魂」の働きというわけです。
ちなみに、この両者には「記憶」の作用もあります。ですので、一度触れてしまった記憶をもとに、触らなくても「ストーブの熱さ」が感覚の中で再現されるし、また、「もう絶対触らねって、あの時思ったっけ」といった形でその時の気持ちも再現されるのです。
ここまでですと、魂の働きはまだまだ外界(物質界)のみに支配されており、霊的作用としての思考などは絡んできません。そうした働きが見られるようになるのは、第三の本性である
「意識魂」にあたります。
人間は、みずからの内に、神的なものを見出すことができる。なぜなら、人間のもっとも根源的な存在部分は、神的なものからとってこられたのだから。このように人間は、みずからの中の神的なものを通して、魂の第三分肢を獲得する。アストラル体を通して、外的な意識を獲得するように、自我という、みずからの中の神的なものを通して、自分自身についての内的な意識を獲得する。それゆえ、神秘学は魂のこの第三分肢を「意識魂」と呼ぶ。 上記抜粋したように、
「意識魂」というのは先に挙げた「感覚魂」「悟性魂」と働きが大きく異なります。意識魂というのは、要は
「外界と、私という存在の境界」を示すものでもあり、ここに人間の個性とも言うべき霊性が生じてきます。
先の例を再び使いますと、熱いストーブを触って「あちっっっっ!」っていう印象を持つのは、まずすべての人に共通されたことでしょう。さらに「もう絶っっっ対、触らね!」っていうのも、多くの人に共通しているはずです。
しかし、意識魂に生じる反応は、個々人で分かれます。例えば、「他の誰かがうっかり触って火傷しないよう、柵を作っておこう」という思いに至るかもしれないし、「この場所に置いておくと、食べ物が痛んじゃうかなぁ」なんて心配するかもしれないし、もしくは「触っても熱くないストーブを発明したい!」という発想に至るかもしれない。そこから先に生じる心の作用はその人独自のものであり、その人それぞれの自由なのです。
外界に限定されず、「私」という領域で思考されること――これが「意識魂」というわけです。
そうなってくると、魂の本領はほぼ「意識魂」に集約されている、とも言えるでしょう。
第三の本性である意識は、もっとも霊界の作用を受けやすい箇所でもあります。こうしてみると私達は、
外界から「感覚魂・悟性魂」を通じて受ける印象と
霊界側からのインスピレーションを「意識魂」が受けることによって生じた思考の両者をうまく調和しながら「生きている」のだということが、何となくおわかり頂けるかと思います。
そして、この第三の本性は、次なる要素である
「自我」へと、切れ目なく繋がっていきます。
◆自我◆ 自我に対する考え方については、東洋哲学と西洋哲学においては大きく隔たりがあります。
仏教を代表する東洋哲学において「自我」というのは
妨げとなるものです。禅などにおいても「自我を徹底的に滅却していく」ことを目標にします。そして、それが取り払われた奥に光る「存在そのもの」こそに意味を見出すのです。(余談ですが、「空」というのは「無」と違います。よく多くの方が勘違いされてしまっているのですが、「空」というのは「いっさいがゼロ」というのではなく、「『何もない』というものが『ある』」状態なのです。……なんのこっちゃ、という感じではありますが――)
一方、西洋哲学においては「自我」というものに徹底的に拘ります。デカルトの「我思う、故に我あり」もそうですし、パスカルの「人間は考える葦である」もそうですが、要は
「思考する自我」というものを立脚点にして、神との繋がりを探ろうとするのが西洋哲学のスタンスなのです。
東洋も西洋も、その意味においてベクトルは真逆の方向を向いています。しかし、方法論は違っても「行き着く先は同じ」なのです。地球を東に向かって開拓しても、西に向かって開拓しても、いずれ出会すのと似たような感覚かもしれません。
多くの西洋哲学者が「自我」を追究したのと同じく、シュタイナーにおける「自我」も同じように重要な立脚地です。(ニューエイジとして東西の神秘思想が折衷してからは、どちらを選んでもあまり関係ないような状態になっています。でも、個人的に現代人は「自我の追究」から入った方がわかりやすいし、社会に適応しやすいのではないかと、そう思っています。)
感覚魂や悟性魂から生じた印象に支配されるのではなく、人はこの「自我」によって完全にアストラル体を支配しなければならない――シュタイナーはそのようにも述べています。
人間は、この作業を通して、一層高次の段階へ至る。それを通して、人間存在の新しい諸本性を生じさせる。今のところ、その新しい諸本性は、隠されたものとして、人間に開示されているものの背後に存在している。しかし人間は、自我による魂への働きかけによって、開示されている魂の中から、隠された魂を現出させることができる。人間は、アストラル体にまで自己の働きかけを拡大することができる。そして自我がアストラル体を支配し、みずからをアストラル体の隠された本性とひとつに結びつける。そのようにして自我に支配され、変化させられたアストラル体は「霊我」と呼ばれる。 ここでいう自我を、「エゴ」とイコールにしてしまうのは誤りです。この自我は「私という存在の管理者」たるべき存在です。なので、今現在、私が――皆さんが感じている「自分自身」というのも、自我とイコールにはならないかもしれないのです。
あえて言えば、
「ハイユアーセルフ」と呼ばれるものとイコールかもしれません。
いわゆる「高次元の自分」であり、
「外界に纏わる欲望や衝動に惑わされていない状態の自分」と言うことも出来るでしょう。
この「高貴な自我」に焦点を合わせ、アストラル体を完全に支配するようになることが理想であると、シュタイナーは言っているわけです。
◆アストラル体と自我の関連性◆ ここでもう少し、アストラル体と自我について掘り下げてみましょう。
シュタイナーは、肉体を「鉱物界」、エーテル体を「植物界」と共有しているように、アストラル体を「動物界」と共有しているとしています。
先日、「生命がないのが鉱物」で、「意識がなく眠ったままの生命が植物」と申しましたが、これを動物に置き換えると
「自我がなく、本能のまま生きるのが動物」と言い換えることが出来るでしょう。「自我」は、自然界において人間だけに与えられた特性なのです。
また、アストラル体は「対象を記憶する」ことは出来ても、それを「統括する」ことが出来ません。先に挙げたストーブの例で言えば、「ストーブは熱い」ということと「触って熱かった」ということは記憶出来ても、その前後の記憶とその対象の記憶を「関連させて記憶する」ことが出来ないのです。所謂「学習能力」とも言えるでしょう。(注※迷路の中にいるねずみが漠然と道を記憶していたり、パブロフの犬現象などは本能に随するものであり、いわゆる「感覚魂」や「悟性魂」の働きです。ここで言う学習能力には含みません。)
さらに言えば、アストラル体というのは「快・不快」が支配する領域であるともされ、幼児期に子供が「快・不快」をもっぱら表現するのも、この「アストラル体の成長期だから」とされています。
そうなると、アストラル体のメインの働きは、
感覚から生じた経験と、それに対する快・不快がメインであり、それらの経験をストックする場所――と言うことも出来るでしょう。
それに反して、自我は先程も言いましたように「個である私」であり、背後の霊界と通じている箇所でもあります。
もし仮に、ここでいう自我が霊界や霊性などを「持っていない」のだとしたら、人は「外界から受けた印象だけ」で生きていくことになり、閃きも直観も、まったく「起こり得ない」ということになってしまいます。
自我は、アストラル体の低次部分である「感覚魂」や「悟性魂」を通じて得た体験を「意識魂」で濾過した記憶と常に向き合っています。意識魂が高ければ高い程、自我との差は生じなくなり、自我によるアストラル体のコントロールというのもさほど難易度は高くないことでしょう。
しかし、子供の成長期間を超えた後でも「快・不快」だけに囚われている場合、自我とアストラル体の溝は深まってしまいます。その分、人間性全体を通しての成熟は遅れをとることとなるでしょう。
思考がよく「あちこち飛び」まくったり、夢が「何の脈絡もなく切り替わったり」などというのは、アストラル体の作用です。自我というのは、それに対して規則性や法則性を見出します。なので、自我が発達している人というのは、行動や言動に主旨一貫している側面が強く、アストラル体の方が発達して自我が追いついてない場合には、思いつきの行動が多かったり、好き嫌いが激しい、などといった傾向が強く表れることでしょう。
アストラル体と自我の差を明確に示そうとするならば、アストラル体は「快・不快の表現や、感覚による反応や行動」というのに対し、自我は「感情から生じるいっさいを、統括せしめんとする働き」とまとめることが出来ます。
◆人間を人間たらしめるものは?◆ 三回に渡って霊学的に人間を考察してみました。
とはいえ、霊学的な「人間の定義」というのは一括りで表現出来るものではなく、あらゆる要素や要因が絡まりあった複雑な存在とも言えます。その為、今回説明した「肉体・エーテル体・アストラル体・自我」だけですべてを包含することは出来ません。しかし、様々な外的要素――眠りや、死、霊界、民族、人種、社会についてなど――を経ることで、さらなる深みにまで考察が行き着けるのではないかと、そんなふうに思っています。
ちなみに、前回脇に措いておいた「人間を人間たらしめるもの」という問いの答えですが――それは「肉体・エーテル体・アストラル体・自我」の四元素がすべて作用しあった状態であり、かつ、外界による影響をも含んだ状態である、そう言えるでしょう。
霊学を学べば学ぶほど、人間が「個として存在するのではなく、常に外界や周囲の人と連動しあって生かされているのだ」ということを、実感せずにいられません。
参考文献「神秘学概論 訳者・高橋巌 ちくま学芸文庫」
「神智学 訳者・高橋巌 ちくま学芸文庫」
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【参考文献】
いままで他ブログ「あの世に聞いたこの世のしくみ」で勉強してきて得た知識から私が到った事に合致します。
私は武道で言う所の「心技体」が「真偽体」ではないか?とひらめき、武道を究めると「心魂体」になるのではないか?と仮定しました。
つまり究めると「偽」だったものが「魂」に昇華する。させるのが武道としての「道」の目的ではないのか?と。(武道を究めると技は体が勝手に動いて出来るようになる。というところから推察)
シュタイナー氏の「体・魂・霊」と「心・技・体」これを合わせて考えると
心(真・芯・神)=霊
技(偽)⇒魂=魂(そのままですね)
体=体(そのままですね)
合致してしまいました(^^;)
つづく
感覚魂・悟性魂(心情魂)・意識魂 について
これは脳の作用と魂の在りかなのかと考えました。
私的解釈で辿りついた結論なのですが、魂の在りかはDNAにあるのかと想っております。
例であるような熱感知で考えますと
感覚魂=熱いを知覚。脳に伝達。脳が意識し、各部に反応を返す。
悟性魂=脳で考察。上記での「脳が意識」した上で各部の状態から判断(火傷すると所轄細胞より熱による壊死情報が伝達されていると推察。)し、今後はどうあるべきか、その対応を判断
意識魂=脳で起こった事柄をまとめ、全身の各部署(細胞)に通達。各細胞は細胞再生時(細胞寿命により作りなおされる際)に伝達情報をDNAに上書きした細胞を生成する。これは脳細胞でさえも例外ではなく、全身に到る。
以前、脳は受信機(チューナー)であり増幅器(アンプ)であり、発信器(ラジオ)ではないか?という考察を書いたかもしれません。
霊我や潜在意識と呼ばれる者は何処に居るか?ということなのですが、脳の働きが高い人は、DNAに刻まれた情報を受信し、認識出来るレベルまで増幅することができるのではないか?という考えです。これが私的解釈における「ひらめき」のしくみ。
これがありえるのだとすると、「前世」や「祖先の魂」を受信出来る能力者が居ることが理解できます。
なにせ、DNAには生物発生から今まで繋いできた全ての情報が書き込まれている可能性があるからです。(アストラル体を通じて他人の過去生をリーディングする能力者も在り得るってことですね)
これらのことは全て体内的にありうる事象ではあります。しかし、霊自体の存在を否定するものではありません。
私的には霊体(浮遊しているものや物質的高次元に存在するもの)は存在するものと考えています。
この話はまたの機会に(*^-^*)ノシ
レスが遅れて、申し訳ございません――。
Famさんの言う「魂の在りかはDNAにあるのか」というのは、かなり信憑性あるものかもしれません(笑)。というのは、エハン・デラヴィ氏は「人類が変容する日」の中で、「細胞のブレインは、実は細胞核にあるのではなく、細胞を包む『膜』にある」って言ってます。
これって……意味深ですよね。
私達も、実は必ずしも「脳がブレイン」なのではない――Famさんが言うように脳はただの「アンプ」でしかないのかもしれませんねv