最近、地震が相次いでいますね……。台風の被害も甚大でしたが――先日の地震で「東海地震の時期が早まったのではないか?」という見解を示している学者もいるそうです。
また、私は行きつけの病院の薬剤師さんから「今年の秋以降、また新型インフルエンザが拡大するという見込みがされている」と聞きました。
よろしくない情報ばかりですね。
私の元にも、「地震が続いているけれど、これはアセンションの兆候? 日本に大型地震は起こるのかな?」という不安を打ち明けてくるメールが、何通か寄せられました。
私は「ナマズ」ではないので、残念ながら地震があるかどうかは分かりませんが(苦笑)――ひとつだけ、はっきり言えることはあります。
地震に限らず、様々な現象――災害、経済崩壊の余波は、おそらく今後「起こるだろう」ということです。
経済不況とはいえ、今日本にはまだまだその兆候が「うっすら」としか見えていません。アメリカというバックボーンに支えられ、またマスコミ報道も調整されているせいか、市民達に伝わるのは身近な情報だけです。ある意味、本当に日本は「洞窟」かもしれません。
でも、実際はヨーロッパなどの不況はかなり深刻で、富裕層の人達の「自殺」が相次いでいるようです。
日本は逆ですね。自殺は自殺でも――派遣切りにあった人の自殺や、中小企業の人達の自殺など。「トップに影響が出ない」限り、国の変貌が自覚出来ないというのは皮肉なことですが――おそらく近々、日本でもそうした事態が少しずつ「じわじわ」と、起こり始めることでしょう。
アセンションに関する本を読むと、この辺りの見解は複数に分かれているようですね。「ポールシフトが起きて、世界的に大混乱となり、人々はまるで獣のように争い、そこはまるで地獄図のようだった」という意見と、「そんな恐ろしいことは起こらない。ポジティブに受け入れよう」という意見。
私は、その両者どちらにも「当てはまりません」。
というよりも、仮に「どんな地獄」が訪れたとしたって――静かな境地で「それを迎えよう」という覚悟があるからです。
アセンション情報に興味を持たれる方に、まず一番最初に分かって頂きたいのは、
「死」は、故郷に還る為の「扉」でしかない――ということです。
だからまず、死を「やにむに恐れる必要はない」、そのことを知ることが最前提です。
人間の生き様にとって一番大切なのは、「死の瞬間」です。
どんなに「私は高貴な人なのよ~。高次の霊とアクセス出来ちゃうのよ~」なんて言ったところで、死の瞬間にあたふたして、それまで向き合って来なかった世の恨み辛みすべてを吐き出して亡くなったとしたら――決して、望める場所には到達しないでしょう。
生きている間に受けた「どんな評価」「名誉」も「肩書き」も、死に際しては「まったく無意味」なのです。
それどころか、どんなに生きている間が苦しくても、死に際して穏やかに受け入れられたのなら――その人の霊性は、光輝くことでしょう。
だから、「大地震は起こるの?」「深刻なウィルス感染は起こるの?」「大規模な経済不況が起きて、第三次世界大戦は起こるの?」と聞かれたら――それは何とも言えません。
ただ言えるのは、「絶対に、『死』を恐れないでください」ということだけです。それは勿論「自殺」を肯定はしていません。それどころか、自殺は絶対に駄目です。火あぶりにされる直前であっても、理不尽な殺戮にあう直前であっても、「死は一瞬」なので、絶対に自ら命を断つことはしないでください(って、挙げる例が凄すぎですね;)
自殺というのは、一種の「逃げ」です。
逃げれば、その先は「永遠の逃避」しかなくなってしまう――。
本来であれば「さなぎから、美しい蝶」に変貌出来るところを、慌てて殻を脱ぎ捨てて、不完全な蝶になってしまうのと同じことです。その後、自由に飛べますか? 自由に、美しい花達の間を往き来できますか?
私が「体外離脱」を繰り返す体質だというのは、前日記にも書きましたが――そうした体験の中で「明らかに、私は『死んだ』んだ」と思うようなことがありました。
当時はまだ、体外離脱に抵抗を感じていて、そうした前兆があるとやにむに足掻いていた時期でした。だから、突然「ポンッ」と肉体からはじき出された瞬間に、「あ、私は死んじゃったんだ」と、勘違いしたようなのです。
でも、不思議と「死」に対する恐怖は、ありませんでした。(驚きの方が大きかったです。)
すると、次の瞬間――。
周りが、濃密な空気のようなもので満たされたのを感じました。
それは――言いようのない、絶対的な「愛」でした。
それをうまく表現する術が、私にはありません。いえ、もしかしたら三次元では言葉にしようがないのかもしれませんが。
三次元で言えば周囲を満たしている「酸素」だの「窒素」だのが――すべて「愛」という元素から生じているような、そのぐらい濃厚な愛を感じたのです。俗に言う「甘露」とも言うべき、濃厚な空気。
その中に、私は包まれていました。
その瞬間。
自分が常に「愛の中に浮かんでいたこと」を、思い出しました。
それはまるで、胎児が「羊水」に守られているかのようです。私達は社会の中で様々なストレス、様々な試練と向き合っていますが――そんな自分達を、本当は「愛」が常に守ってくれていたということを、その時に強く感じました。
あまりの感激と感動で、私の中には「ありがとう、ありがとう……」という言葉しか浮かんできませんでした。
私達は自覚がないだけで、充分「神の愛」の中に生きているのだと――そう感じることしか、出来ませんでした。
その後私の肉体は、急激に「暗いトンネル」の中を上昇していきました。前方に光が見えて、そこに向かっているのが分かります。
「ありがとう、ありがとう――みんな、本当にありがとう」
感謝の言葉を、何度も繰り返し述べました。
……が、その時。
「ちょっと待てぇ――っっ!」
急ブレーキをかけました。
「一言……姉ぐらいには、『死んだよ』って言っておこう」
そう思って引き返し――そこで、意識が戻りました。
……その時「そのまま行っちゃってた」ら、たぶん、私はここにいなかったでしょうね。
でも、正直「行っちゃってた方が、幸せだったな~」なんて思う自分もいます(苦笑)。
これは体外離脱における「臨死体験」ですが、おそらく「本当の死」も、これに似たものだと思います。
死の苦悩は「一瞬」です。よく「あの霊は、まだ死んだことに気づいていないで迷ってる~」なんて言葉を聞くと、「自分は死を自覚出来るだろうか」と不安に思う方もいるようですが――「大丈夫です」。
――死は、本当の故郷に還る為の「扉」でしかない。
そのことを深く実感していれば、絶対に迷うことはありません。
大カタストロフィーを、「実際に起こる」「いや、起きない」ということを論じるよりも前に、自分自身の中における「死の位置づけ」を変えることが何よりも大切だと、私は思います。
「死の位置づけ」が変われば、自ずと「自分の生き方」も変わります。目の前にある一分一秒を大切にし、どんなものごとにも自ずと前向きに捉えられていくはずです。
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一般法則論者
リンクされていた記事については、拝見いたしました。非常に興味深い内容、および真理に向き合おうとする情熱の程に感心させられた次第です。
ただ、私がひとつ受け入れがたいと感じたのは、「マヤ暦」を「嘘だ」と否定されているところです。
私は放映された「たけしのTVタックル」は見ていないので(もともとTVは見ない質故)詳細についてコメントは出来ませんが、こちらのブログコメントにあったように、一般の方が「恐怖を煽るような内容のものだったのだろう」ということは大方予測がつきます。
しかし、それは「恐怖を煽るような報道の仕方」しか出来ないマスメディア側を非難すべきであって、その報道ひとつでもって「マヤ暦は嘘だ」と断言するのは――同じ真理を探究する者として、その姿勢は受け入れられません。
ご自身でそれに関する著作を何冊も読んだ上での検証であれば、肯定・否定も出来ましょう。しかし、ただひとつの報道だけで「文明の中で築かれたもの」に対し論じるのは、あまりに浅薄ではないでしょうか?
日本においては、「死」に対するきちんとした教育がなされていません。(いえ。日本だけでなく、物質世界におけるすべてがそうだとも言えるでしょう。)
そうでありながら「死」を面白可笑しく、恐怖を駆り立てるような報道の仕方をするマスメディア側の方が、遙かに「問題がある」――そう思われませんか?
しかも、今の状況のままでは「マヤ暦」関係なく、大きな災害が起きる危険もあるのです。
そうした際に一番必要なのは――先述した「死に対する心構え」なのではないでしょうか?
死はネガティブなものでも、決してないのです。
一般法則論者様は、どこまで死を掘り下げ、みつめ、検証されて来ましたか?
もっとも、一般人で死を恐れる方々の気持ちは、よく分かります。小さなお子さんのいるお母様でしたら、ことさらそうでしょう。
しかし、それを言うなら世界には理不尽な死・殺戮がたくさんあるのです。乳飲み子に母乳をあげたくても、栄養失調で死んでいく子を前に、泣き叫ぶしかない母親もたくさんいます。
そうした事実を、どう受け止められていますか?
神の真理は「頭」ではなく「心」で受け止めるべきものですよ。
もうひとつ、僭越ながら言わせて頂きますと――
他者のブログ、しかも初対面の相手に対して事前の挨拶もなしに用件だけの書き込みというのは、大変失礼なものではないでしょうか?
どんなに正論を書かれていても、ひとつのマナーでその方の人徳はすべて露見されてしまうものです。
今後はそうした点も、注意された方がよろしいのではないかと思う次第です。